はじめに
私たちは、どのような時代を生きているのだろうか。それを理解しようとしても、「不透明」であるというのが、この時代を表現する際に、最も適した言葉のように思われる。戦後、「成長」など、私たちの社会を規定する考えが、多くの人々に共有されていたように思われる。しかし、その「成長」が、一部の人々を排除するものであったり、その「成長」の限界が指摘されるなどして、そうした社会全体の共有意識というものは崩壊しつつある[1]。
ここ100年を振り返ってみると、第1次世界大戦、第2次世界大戦など、国民国家による大戦争が想起される。その後の、冷戦期においても、米ソによる核の軍拡、または、朝鮮戦争やベトナム戦争など、国民国家の暴力装置としての役割が強く印象づけられる時代である。ただ、同時に、その時代は、脱植民地化の時代でもあり、多くの民族が、または、旧植民地が、国民国家の建設を求めた。もちろん、この国民国家の流れや、国民国家に関しては批判だけでなく、肯定的に捉える事が出来る面があることは明らかであろう。先進国における福祉国家化の流れは、その大きな証拠となろう。しかし、歴史的な事実を考えた時に、肯定的な側面だけを見ることはできず、両方から捉えていくことが重要であると考える。また、冷戦期は、その国民国家を乗り越える時代でもあった。今も、統合への過程を進んでいるEUなどは、その最も大きな例だろう。この統合への深化の最初の動機には、独仏間での戦争、また、ヨーロッパにおける戦争を、阻止しようというところから始まったと見ることができる。他にも、冷戦から冷戦以後になると、NGOやNPOなどが、国境を越え、その活躍の場を広めている。こうした新たな試みは、国民国家の不足を補い、または、その問題を解決していくのに大きな役割を果たしているということができるだろう。ただ、こうした国民国家を乗り越えようとする動きは、肯定的な側面ばかりではない。多国籍企業、グローバル企業や、巨大なファンドなどは、国民国家以上に、その経済力をつけつつある。アジア通貨危機などは、そうしたファンドの行動が大きな作用を及ぼし、国民経済を破壊したと言われている。昨今の、資源高も、その背景の一つには、世界的な投機マネーの存在があることが指摘されている。国民国家を超えたプレイヤーが、世界経済に大きな影響力を持ってきているということは指摘できるだろう。もちろんではあるが、こうした巨大な経済プレイヤーは否定的な側面だけではなく、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツなどは、その創業者利益を、世界の貧困などのために、費やすなどの試みがなされている。
国際的な構造分析を行ってきた。次に、国内における、国民国家に関する評価を見ていくことにしよう。大きな戦争を経るごとに、その国民国家としての統合は強化されるという。冷戦以後は、西側の先進国では、福祉国家が進んできた。しかし、1970年代以降、「経済成長」の陰りが、見え、その福祉国家化の流れにも、大きな見直しが求められるようになった。その結果、日本では、中曽根内閣、アメリカでは、レーガン政権、イギリスでは、サッチャー政権など、「改革」と呼ばれるような政策が次々と進められていくことになる。日本では、それ以後、橋本内閣、そして、小泉内閣と、一連の改革がなされた。その後、日本では、「格差社会」ということが多くの人々に意識されるようになり、将来への不安などから、「希望」が持ちにくい社会に向かっているように思われる。規制緩和の悪い結果として、人材派遣大手の「グッドウィル」による不法行為が行われるなど、その「改革」の制度設計に対して大きく疑問が突き付けられることになった。ネットカフェ難民は、「格差」や「貧困」の問題を考えるにあたり、これまでの視点では捉えきれないことを、大きく示している。他にも、公的年金への持続性への疑問は、若者の未納につながり、これは、政府に対する信頼が失われていることを示しているように思われる。今日、「格差」に関する問題は累積しているが、政府は、その問題に対して、十分に、対応できているとは考えられない。ただし、大阪府などの事例を見れば明らかであるが、すべてを、政府に頼ることは不可能である。このことからも、これまでの政府の在り方を、今日の問題に合わせた形に、見直していく必要性を示しているように思われる。そして、政府の不足を補う組織についても、合わせて考えていく必要があるのではないか。
国民国家の限界や、危険性、または、肯定的な側面も、以上のような事実から、言うことができるだろう。こうした中で、国民国家論は、国民国家を全体として批判する試みである。以上のように、国民国家が、さまざまな段階を経てきて中で、そのあり方自体を批判的に見ていくことは非常に必要であると考える。その中から、これからの国民国家の在り方が見えてくると考えている。そして、そうした国民国家と補完的な組織についても、考えていくことができるのである。
ここでは、まず、「国民国家論」について確認していく。国民国家論を確認する中で、国民国家を作り上げる制度を批判し、そして、そこで、無視されてきた側面について次に考えていく。その事例として、横浜の寿町[2]の歴史を見ていく。この歴史を通して、いかに、日本の「成長」と深い関連性を持ちながら、しかし、その恩恵を受けられなかったのかについて見ていくことにする。次に、「国民国家論」批判を確認する。そして、その批判から見えてくる、あるべき共同体について考えていくことにする。
1.「国民国家論[3]」
最初に、国民国家論について見ていくことにする。国民国家論は、われわれがそのなかに囚われている国民国家を相対化し、対象化し、批判する試みである。西川にとって、国民国家論は少なくとも以下の3点を含むものであるとする[4]。1つ目は、自分自身が囚われている国民国家を全体として、対象化する試みであるということがある。つまり、国民国家論は、国家装置と国民形成の双方を視野に収めると同時に、それを論じる者の言語や思考や感性を問うものであると言う。2つ目は、国民国家論は国民国家批判であり、批判理論としての国民国家論であるということがある。ここ、100年の戦争などの歴史的事実を考えた時に、国民国家論が、批判理論としてなければいけないことは明らかである。その中で、国民国家論は、戦争を生み出す装置や制度をそのままにしての戦争批判とは大きく違い、その装置や制度をも含んで批判していく学問であるという。3つ目は、国民国家論は国民国家が世界的な国家システムのなかに組み込まれており、しかもその世界的な国家システムが(したがって国民国家が)崩壊に向かっているという認識から出発しているという。つまり、短期的には国家の存続はあったとしても、崩壊のさまざまな傾向と兆候を経て、崩壊の過程を進んでいくと見ている。
次に、国民国家に関して、国民国家論は以下4点の考察と判断を含んでいるとしている[5]。①国民国家は歴史的に形成され、時代と場所によって変化し異なった意味をもち(基本構造とヴァリエイション)、初めと終わりがある。②国民国家はそれ自体が矛盾的な構成体であり、その矛盾が原動力であると同時に破壊的にも働くであろう(抑圧と解放、搾取と被搾取、福祉と軍備、戦争機械としての支配と自滅の可能性、等々)。③国民国家は国際関係あるいは世界システムのなかで機能し、平等な国家主権あるいは国民主権といった神話にもかかわらず、中核と周辺、支配―被支配といった世界的差別の構造の中に位置づけられる。そしてその結果として、国民国家はシステムの普遍性をのなかで差異(国民文化、国民性、国民史、国語、国家、国旗、等々)を強調する。④国民国家においては国民の再生産(国民化)が最優先の課題とされる。国家は国民を必要とし、国民は国家装置によって国家にふさわしい存在としてつくられる。
以上、国民国家論と、その理論が含意する国民国家について、見てきた。国民国家論は、相対化し、対象化し、批判する学問であり、その批判の対象は、歴史学にまで広がっている。近代歴史学には、以下3点問題があるとしている[6]。①近代歴史学は国民国家の産物であり、国民国家の制度であり、したがって国民国家の一部である。歴史が国民史の形を取るのは、その必然的な結果であった。②したがって、近代歴史学が国民国家と運命をともにするのは理の当然であって、歴史学は国民国家とともに終焉をむかえ、歴史記述、つまりジャンルとしての歴史も、消滅するか形を変えるはずである。③そして現に国民国家は崩壊しつつあり、歴史学も崩壊しつつある。逆に言えば、歴史学の変質が国民国家の変質を表しているとする。
国民国家論を使う形で、国民国家を批判してきたのだが、西川はそれに代わるオルタナティヴを提示することはない。逆に、オルタナティヴは歴史とともに、長い考察と批判のあいだにおのずと形成されると述べるなど、よくわからない[7]。つまりは、国民国家論は、批判の学問であり、簡単に、または、安易に、オルタナティヴを提示することはしないということなのであろうか。ただし、ヨーロッパにおける統合について、一つの新しい試みとして見ていることは確かそうである[8]。
以上、簡単化して、西川の議論を通して、国民国家論を確認してきた。その中で、歴史学に対しても批判的に見ていくことが必要であることも確認した。国民国家論は、どのようにして、国民国家に包摂されるようになるのかを明らかにする。だから、「成長」「一億総中流」などに対する批判の視点を投げかける。その結果、それらから「排除」されていたと考えられる人たちがいることが見えてくる。次に、その事例として、横浜の寿町の歴史を簡単化しながら振り返ってみよう。
2.寿町の歴史[9]
ここでは、寿町の歴史を振り返りながら、この歴史が何を意味するのかについて考えていくことにしたい。横浜にある寿町は、日雇い労働者の街として知られてきた地域であり、東京・山谷、大阪・釡ヶ崎と並んで、「日本の三大寄せ場[10]」の一つに数えられてきた。寿町およびその周辺地域はもともと「南一つ目沼」と呼ばれた湿地帯であったが、19世紀後半に埋め立てられた。この埋立てによって誕生した新たな地域は「埋地七ヶ町」と呼ばれ、寿町の地名もこのときに名付けられたそうである。「寄せ場」としての寿町の形成は第2次世界大戦後のことであり、それ以前は問屋や小規模な商店が軒を連ね、港湾労働者とその家族が暮らす、下町的情緒を帯びた地域であったという。しかし、第2次世界大戦以後、寿町を含む「埋地七ヶ町」一帯が米軍によって接収されたことによって、旧来の住民は生活の場を他所へ求め、移動していくことになった。同じころ、戦後援助物資の国内受け入れ港となった横浜港に全国から労働者が集中したが、住宅をはじめとする生活インフラの整備が間に合わず、桜木町・野毛地区にスラムがいくつも形成されていくことになった。また、宿泊所不足のために、川沿いに、多数の「水上ホテル」が開かれるようになったそうである。1956年に寿町を含む「埋地七ヶ町」の接収は解除され、そして同時期に、スラムの撤去も行われることになった。スラム住民のうち、家族や子供、女性の多くは公営住宅へ入居し、残りの人々、単身の男性労働者たちは寿町に向かったという。寿町では、接収解除後に空いた場所に、簡易宿泊所が立てられ始めていたことが、その背景としてあった。1957年には、職業安定所が寿町に移転し、同じころ、水上ホテルが順次廃止されていったため、寿町を生活の場とする日雇い労働者たちの人数は急増し、それに対応するかのように簡易宿泊所の数も、急速に増えていくことになる。こうして、高度経済成長前後の時期において、全国から集まってきた多数の労働者が寿町に集中し、港湾や建設などの現場で日雇い労働者として就労し、寿町は生活の場[11]としても発展していくことになる。港湾の機械化などもあり、港湾労働者に対する需要は減ることになる。また、1970年代最初に、高度経済成長が終わりを迎えたことも、労働者に対する需要を減らすことになった。芹沢「日雇労働と寿ドヤ街形成」p.62によると、昭和45年に6300人いた人口が、昭和50年になると、4200人に急速に減少している。単身労働者[12]に関しては、4900人から、3400人の減少であった。寿町において、家族を持つ労働者たちがいて、生活の場として発展してきたという側面はあろうが、ただし、その労働者の多くは、単身の労働者ではあったことは確かであろう。有子世帯については、昭和45年から昭和50年に間に、198世帯から131世帯に減少し、夫婦世帯に関しても、300世帯から119世帯に、大幅に減少している。港湾労働の機械化の結果、有子世帯や夫婦世帯は、寿町から出て行ったと思われる。戦後復興と高度経済成長期を支えた労働者たちは1970年代から、高齢化を迎えはじめ、1980年代以降、その傾向は顕著になっていくという。家族をもたずに単身で暮らしてきた男性労働者たちは高齢化に伴って、しだいに就労の場所を失い、長年疎遠であった家族親戚にいまさら頼ることもできず、結果として寿町で生活保護を受けながら暮らしていくことになる。そして、高齢化の進展は、寿町の生活保護受給者の増大をもたらし、1984年に5割弱であった生活保護受給率は、バブル期には一時的に減少したが、その後の長期化する「失われた10年、15年」の不況の中で、1993年には50%を越え、現代に至るまで、一貫して増加傾向にある。現在では、寿町では高齢者全体の95%入以上が生活保護を受給する状態にあるという[13]。
以上、寿町の歴史について簡単化しながら、振り返ってみた。高度経済成長においては、巨大な労働需要から、多くの人々をひきつけたが、高度経済成長の終わりと、また、機会化の流れの中で、労働需要は減少していくことになった。こうした経済構造の変化に対して、対応できる人たちに関しては、他地域に移るなどして、対応していったことが、この時期における寿町における人口減少から考えられる。しかし、寿町を離れることができない多くの人たちは、そのまま寿町にいて、高齢期を迎え、仕事ができなくなり、頼る存在もないために、結果として、生活保護を受けている状態にあるという。日雇い労働者として、短期的な観点からしか働かなかった労働者にも、責任はあろうが、彼らの労働の現場は、まさに、日本の発展を支えた道路であったり、港であったり、建築現場であったことを考えると、彼らを使った側、そして、それらを利用して経済的な富を享受している側にも、大きな問題があるのではないかと思わざるを得ない。最後に、こうした歴史を踏まえて、「国民国家論」からの批判を超えて、どのような共同体、および、政府が求められるのかについて考えてみたい。
3.国民国家論からの批判を超えて
まずは、国民国家論に対して批判的な意見として、大門[14]の国民国家論に関する議論を見ていくことにする。大門は、基本的には、国民国家論を受け入れつつも、その理論の含意するオルタナティヴの姿に、「強い個人」があることに対して、強い反発を示している。また、国民国家に含まれた問題性を指摘するだけでなく、国家そのものを忌避する議論が含まれていることに対しても違和感を表明している。結果、「拠点」を定めて、その中で、「近代」について、肯定否定の側面、または、規範とのずれを見る中で、「近代」の意味を明らかにしていこうとしている。また、その「拠点」の中に、「近代」を乗り越えようとする動きを見ようとする。
こうした考えのために、人と人のつながりには、個人を抑圧する危険性が含まれていることは認識しつつも、そのつながりの再生に、将来の展望を示している。その抑圧性を、解消していくために、主権を広げていくことが重要であると述べられている。そして、結論だけの表明ではあるが、遠い将来を別にすれば、国家には共同性を担保する必要な役割があると述べている[15]。
主権については、憲法などを勉強していくことが必要なのであろう。ただし、国民国家論の議論から、主権についても、批判されており、その点を踏まえると、どうなるのかについても議論する必要があるのではないかと思う。ただ単に、主権を広げれば問題が解決するというほど、問題は易しくはなさそうである。また、国家には共同性を担保する必要があるというが、その共同性を国家が担わなければいけないのかどうかについても疑問がある。アジア・太平洋戦争における政府の政策(満州における政府による市民に対する政策とか)は、政府への信頼を失わせる。国家は、共同性を守ってほしい時に、本当に守ってくれるのだろうか。
以上のように、国民国家論に対する批判的な意見を見てきたが、方向性としては、これに対して、私は、賛成である。それは、国民国家論に「強い個人」の仮定が含意されていることは確かそうだし、人間は、一人では生きられないことは明らかであろう。上で、確認した寿町においても、NPOなどの組織が、そこにおける高齢者たちを援助しているということがある。そして、働ける高齢者たちは、NPOとともに、活動していたりすることがある。他にも、東京における県人会組織の多さを見ると、「強い個人」というのは、間違っているように思われる。そして、「強い個人」のように働いていた単身日雇い労働者が、実は、「強い個人」ではなかったことは、上で明らかにしたことである。言葉の検討など、まだまだ、検討すべき余地が多そうである。また、私は、国民国家論についても、その批判理論としては、同意するべき点が多い。国民国家や、それを支える装置の抑圧性について、批判する視座を与えてくれる。
まとめ
国民国家論、寿町の歴史、国民国家論批判を見てきた。寿町の歴史は、私たちに多くのことを教えてくれる。「成長」を支える存在として、日雇い労働者として働いた人々が、高齢化を迎えて、生活保護に至っている。まずは、 この事実は何を意味しているのかを考えざるを得ない。結局、日本の「成長」というのは、こうした労働者たちを豊かさから「排除」する形で成立していたのではないか。それは経済成長において、ある層は富を享受でき、ある層は富を享受できないということを示している。
こうした状況に追い込んだ、彼らを使っていた企業や、または、政府の責任は重い。だからと言って、国を解体に追い込むようなことは、もちろんできない。政府が社会保障の担い手であることは続きそうである。私たちは、日本国憲法に書かれていることを十分に踏まえて、これまで、それが届かなかった層に、届くように努力する必要がある。
こうした政府の不備を埋める、もしくは、政府の限界を補完する組織として、NPO活動などが、寿町でも活発に行われている。こうした組織が、国民国家論からの批判としての組織の抑圧性を超えて、活発化していくことを期待したい。
最後に、日本の経済成長の発展が、寿町のような「格差」「貧困」と密接に絡み合いながら、行われてきた事は、ここで明らかになった。ここでは、それなら、どうすべきだったのかという検討までは行うことはできなかった。しかし、歴史として、経済発展を語る時に、それが誰を排除した形でなされてきたのかについて、意識することは、これからの時代を見るにあたって、非常に重要な視座であることは明らかであろう。国民国家論、そして、それを超える視座を考えながら、日本の戦後発展とは何だったのか、そして、今の社会は、どうなっているのかを考えていくことが重要であると思われる。
参考文献:
・大門正克『歴史への問い/現在への問い』校倉書房、2008年。
・芹沢勇編『寿ドヤ街』神奈川県匡救会、1976年。
・田中俊夫「寿地区の歴史」ことぶき共同診療所『5周年誌』ことぶき共同診療所、2002年。
・西川長夫「戦後歴史学と国民国家論」歴史学研究会編『戦後歴史学再考』青木書店、2000年。
・日本経済新聞社編『されど成長』日本経済新聞社、2008年。
・山本薫子『横浜・寿町と外国人』福村出版、2008年。
備考:
1行40文字、36行。
[1] 日本経済新聞社編『されど成長』は、成長に関して、さまざまな批判があることを多少は踏まえた上で、しかしながら「新しい成長の形」を探そうという試みであるとしている。
[2]寿町は、横浜にある日本三大寄せ場(他は、東京・山谷、大阪・釜ヶ崎)の一つである。寿地区という呼ぶこともあるそうであるが、ここでは、寿町を使っていくことにする。
[3]西川長夫「戦後歴史学と国民国家論」歴史学研究会編『戦後歴史学再考』青木書店、2000年を使って、ここでは、国民国家論について考えていくことにする。
[4]西川「戦後歴史学と国民国家論」p.75-77。
[5]西川「戦後歴史学と国民国家論」p.110-111を参照。
[6]西川「戦後歴史学と国民国家論」p.107-108を参照。
[7]西川「戦後歴史学と国民国家論」p.109-110を参照。
[8]西川「戦後歴史学と国民国家論」p.97。
[9]田中俊夫「寿地区の歴史」ことぶき共同診療所『5周年誌』、芹沢勇「日雇労働と寿ドヤ街形成」芹沢編『寿ドヤ涯』、山本薫子『横浜・寿町と外国人』を基に、この章は書いていくことにする。
[10] 「寄せ場」とは、日雇い労働者の自由労働市場、青空市場(屋外での職業斡旋を行う空間)をさす語であると同時に、簡易宿泊所(ドヤ)が密集し、多くの日雇い労働者が生活する地区であることも意味する。
[11] 寿町では、労働者の多くが就労現場に変更のない港湾労働に従事していたことから、家族を持った日雇い労働者が多数見られた。1970年代には、保育所、労働相談窓口など地域住民の生活・福祉に根ざした施設が開設された。また、町内新聞の発行や、盆踊り大会などの地域活動も開始された。自治会も発足することになる。
[12]芹沢勇「日雇労働と寿ドヤ街形成」p.64によると、単身日雇い労働者の出生地は、神奈川や東京が多いようであるが、しかし、他府県の合計で考えると、その7割を占めている。福岡出身者などの炭鉱閉鎖地域出身者が多いことなどが指摘されている。多様な背景を背負って、寿町に流れてきた事が推察される。その具体的な事例としては、野本『風の自叙伝』に描かれている。
[13]山本薫子『横浜・寿町と外国人』p.13。
[14]大門正克『歴史への問い/現在への問い』校倉書房、2008年を参照。
[15]大門正克『歴史への問い/現在への問い』校倉書房、2008年、p60-61。

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