『満州移民 飯田下伊那郡からのメッセージ』の感想
「歴史をどのように考えるのか」について、考えさせられることは多い。昨今問題となっている、政府高官の意見は、歴史を考えることの難しさを見せつけられたような感じがした。こうしたことは、閣僚や、政治家などによっても、繰り返し、行われてきたことである。このことは、ある側面では、日本外交のマイナス要因になっていたり、また、日本が「戦後」を終わらすことができない大きな要因になっていると思われる。歴史の解釈は、多様であっていいことは明らかだが、しかし、その基礎には、「事実」と、「独善を排した態度」が、求められる。独善的な歴史解釈が、日本において、どうして、幅広く浸透しているのかについては、多くの理由があって悩ましい問題である。ただ、市民的観点や地域の視点など、もう少し、幅広い観点から検討すれば、また、解釈も変化するのではないかとだけは、しばしば思うところであります。
『満州移民 飯田下伊那郡からのメッセージ』の内容は、長野県の飯田下伊那郡からの満州移民が、どのような政治的・経済的・社会的な状況下で、送り出されていったのか。そして、その送出後の満州での生活、ソ連侵攻以後の引き上げの状況。最後に、満州移民たちの、戦後の様子が描かれている。また、それぞれの章には、この満州移民という歴史的事実から何を学ぶべきなのか、そして、如何に今日に生かしていくのかという点についても言及されている。
アジア・太平洋戦争が、何だったのかについて、地域という視点からの幅広い理解を可能にしてくれる本である。総力戦としてのアジア・太平洋戦争は、全ての市民の全ての生活を総動員し、そして、多くの市民の生活を破壊していったことが分かる。また、そこには同じ市民が、社会的経済的政治的な関係の中で、その他の市民の送出に大きな役割を果たしたという「歪み」も、この本を読んで非常に考えさせられたことである。そして、戦後になっても、解決することがなかった、この「歪み」は、多くの市民に押し付け続けられてきた。もしかしたら、今日でも、押し付け続けられているのかもしれない。この「歪み」について、批判していくことが必要であり、かつ、この「歪み」は何に起因して起きてきたのかについて考えていくことが必要であろう。
ここで、忘れてはいけないのは、多くの日本の市民が国家の政策によって、多くの被害を被ったということである。国家によって、満州移民は、「棄民」されたという表現も使われていた。この点では、完全に、満州移民の方々は、「被害者」である。しかし、一方で、それらの被害を被った市民も、総力戦としてのアジア・太平洋戦争を支えたという点では、明らかに、侵略された国や、交戦国の市民にとっては、加害者である。総力戦は、市民を総動員するために、市民の中に、大きな傷跡を残すことになる。こうした点が、総力戦としての戦争が、国家間における関係の改善だけでは、十分に、その関係を戻すことができないという背景になっているのだろう。つまり、何かしらの形での市民間での「和解」が必要であるということだ。この被害と加害の重層的な責任を、このどうしようもない苦しみを、市民に押し付けるという点で、総力戦というよりも、戦争自体をなくさなければいけないという強い動機がここにはあると、私は考える。この加害と被害の2重構造に、日本社会は悩み、苦しみ、考えてこなければなかったし、これからも、考え続けなければいけないのではないか。ただし、満州移民の方たちは、日本の社会からも大きな「歪み」を押し付けられたという点は、忘れてはいけないし、また、それを許容しているような状態を続ける日本社会には、批判的に見ていくことが絶対に必要であろう。
この本では、地方においては、戦争に関する加害意識が不十分であると書かれていた[1]。戦争世代に、加害者意識が足りなかったという点を問題視していくことは必要であろうが、戦後世代として、自分たちの問題として考えていく時には、「戦後責任」を果たしていくことしかないであろう。その最初としては、事実を真摯に学ぶということが絶対に必要であろう。そして、次に、アジア・太平洋戦争から何かしら「矛盾」が生まれているのならば、それに対して、「弱者」の視点で考えていくことであろう。私たちは、政府の政策決定者のように、振る舞う必要がないのである。一市民として、逆の立場だったらどうしようとかと、想像力を膨らませながら考えていくことが必要なのではないか。
どうして、戦後日本社会では、加害者意識から来る戦争責任を十分に果たしてこなかったのだろか。責任主体としての日本人を十分に立ち上げることができていなかったからだという意見もある。地域の場合は、外国との交渉があまり多くなかったことや、また、過去の問題に関して政治的・社会的・経済的な関係の中のために真摯に取り組んでこなかった、取り組むことができなかったからかもしれない。中央における戦争責任の取り方が、例えば戦中と戦後の政策決定者のつながりを見ていると、不十分だったと言うことができることから考えると、地域内における「歪み」の問題も、相当曖昧に解決されたことが推測される。他にも、外国との交渉、特に、冷戦期においては、中国との交渉が閉ざされたり、開発独裁政権のもとでは、その責任を曖昧にすることで進められたことなどから、戦争責任を考える機会が失われたことが考えられる。そもそも、如何にして、責任主体としての日本人を構築するのかは、疑問であるが、国内における戦争責任の清算と、外国との交渉の中で、全体としての戦争責任に対する認識が形作られるのであろう。こうしたことが、地域においても、そして、中央においても、不十分だったのではないか。そして、それを許すような社会的・政治的な背景があったのではないか。そのために、昨今においても、独善的な歴史解釈が、政府高官あたりからも出てくる背景になっているのではないかと、思われるのである。
今日においては、飯田下伊那郡は外国人の割合が、グローバリゼーション及び、中国帰国者などの結果、多いという。この大きな変化を、そこに住む人たちは、どのように受け止めているのだろうか。この状況を上手く使うことができるかどうかは、そこに住む人たちの努力によるだろう。しかし、アジア・太平洋戦争の思わぬ副産物としての地域のグローバル化は大きなチャンスであり、他者との交渉の中で、責任主体としての日本人を自覚する大きな契機になるかもしれない。そして、今日のグローバルな問題を日本だけでなく、それを超えた主体として考えることができる大きな契機になるかもしれない。このことは、日本人が戦前そして戦後も犯した自国だけの利益を追求するという姿勢を変え、他者の利益だけではなく、他者と自己を含めた新しい主体の利益を創造しようというところにつながる可能性が十分にあると思われる。
戦後世代として、これまでの議論を踏まえると同時に、これからは、戦争世代が、いなくなるという変化を受けて、何かしらの議論の組み換えが必要なのは明らかであろう。具体的に、どうすればいいかということは、不明であるが、他者との交流が重要になることは間違いない。ボーダーレスな社会の中で、多くの他者との交流を通じて、考えを深めることの必要性を感じる。そして、飯田下伊那郡には、その新たな時代の可能性が、アジア・太平洋戦争の思わぬ副産物として、認識されるようになってきた。そして、現実的に、グローバル化が進んでいる。この新たな変化(外国人の割合の増加)を十分に認識することは、過去の問題を深く認識することにもつながるであろう。この繋がりを十分に認識することは、これから、非常に、重要になることは間違いないのではないか。このことを通して、過去をきちんと学ぶということにつながってくるのではないかと考える。
[1] 『満州移民』p.224。「開拓民は、被害者でもあり加害者でもある。また、被害者であるがゆえに、加害者となる、という満州開拓の重層的関係を理解することは、地域社会ではまだまだ困難であった」
2008年12月9日火曜日
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