2008年7月31日木曜日

駄作:東アジアをどのように考えるのか

○はしがき
 
日本は、アジアで最初に「近代化」を成功することができた国であり、そういう意味では、日本は、欧米諸国と近い関係にあると言えよう。しかし、日本の地理的な環境は、明らかに、アジアであり、東アジア圏内に属することは、自明であると言えよう。こうした中で、一つには、ヨーロッパの統合の深化に刺激され、また、別の面としては、世界的な(戦前のブロック圏とは違うと思われる、開かれた)地域圏構想の中において、日本も、昨今、東アジアの地域において、積極的に、コミットしているように思われる。というよりは、この流れに乗り遅れては、経済的な損失が大きいということを認識しているからであると思われる。日本は、アジア・太平洋戦争の結果、地域構想への取り組みが遅れてきたと言われている。
 
このレポートでは、この東アジア地域をどのように考えていくのかについて、ロイ・ビン・ウォン[1]と山本有造[2]の著作に依拠しつつ、論じていきたいと思う。まず、最初に、東アジア統合の進展と、その時に、避けては通ることができない国民国家について、簡単に考えていくことにする。

○東アジアにおける統合の進展

2007年11月に、ASEAN+3首脳会議が開かれるなど、東アジアにおいて、「公式の統合」は進んでいる。この会議の共同声明として、次のように、これまでの、そして、これからの東アジアの国際秩序が展望された。「われわれは、過去10年間の成果を振り返り、既存の協力を強化し、ASEAN+3協力の将来の方向性を提示した。ASEAN+3協力は、ASEAN共同体を実現するために引き続きASEAN統合を支持すると同時に、長期目標としての東アジア共同体の形成に貢献するものである。[3]
 
1997年~1998年のアジア金融危機を契機始まったASEAN+3プロセスが、長期的には、「東アジア共同体」形成までを視野において進展していることは、東アジアにおいて、少なくとも国家間のレベルで、新しい国際秩序[4]を作り出そうという機運が高まっていることを示している。しかし、現段階においては、これからの東アジア国際秩序、また、「東アジア共同体」のあり方は、不透明である。このことは、逆に、これからの取り組み如何によって、そのあり方が変わるということを示している。

さて、「東アジア共同体」、そして、これからの東アジア国際秩序を考えるに当たって、一つのベンチマークとなるのが、ヨーロッパにおけるEU統合である。ヨーロッパにおける統合の方法が、即座に、東アジアで適応することができるということはないであろうが、その統合の過程を見ることで、私たちは多くの示唆を得ることが出来る。また、その統合の結果としての経済的な利益や安全保障上の利益などを見ていると、私たちは、それに魅了され、憧れさえもってしまう。このように、EU統合のアプローチを「直接的」には利用はできないが、「間接的」に、利用していくことになるのだろう。

ところで、ステレオタイプではあるが、EU統合の「成功」の要因として、「ヨーロッパ的価値」の共有や、経済的な発展などの同質性を挙げることがある。そして、それを持って、同質性が低いから、「東アジア共同体」は難しいとされる。確かに、東アジアは、経済的な発展の度合いで言えば、日本のように成熟国家がある一方で、中国のように、今まさしく、経済発展している国もある。また、何かしらの価値の共有が、なされているとも考えにくい。よって、「東アジア共同体」への道が困難であるということは分かる。

しかし、こうした限界は、地域としての東アジアへの関心を喪失し、近代世界の基準で考えたからなのではないかと、ロイ・ビン・ウォンは言う[5]。そうした近代に捉われた見方をする結果、日本のように、近代化に成功した社会は欧米社会との似た様相を呈してくるために、未だ近代化していない国々とは、大きく異なっている・少なくとも同質ではないと判断することになるのであろう。また、東アジアにおいて、今日のように経済や政治または文化においても、活発に交流が進むと、その経済行動や政治政策を考える上で有意義な文脈ででしか分析されていないことも大きな問題としてあると指摘している。

こうした文脈においては、先立って存在した、その地域の分析などは意味がないように思われていると指摘されている。ロイ・ビン・ウォンは、こうした状況において、「東アジア地域、および、かつて中国の地中海であったものの内部での近年の活動の重要性に着目することによって、我々は政治や経済に関する研究をより精密なものとし、また、グローバルな分析枠組みにおいて従来除去されがちであった社会的・文化的なコンテクストをもって我々の研究課題を豊かにすることができるであろう」と言っている。

つまり、こうした取り組みは、従来の近代的見方ではとらえられなかった、東アジア地域における共通の文化的・社会的基盤を明らかにすることにつながり、これは、将来の東アジア共同体構想などを考えていくにあたって、非常に重要な役割を果たすことが期待できるであろう。ただし、これも、近年の国民国家論的文脈で言えば、共同体を創造するために、こうした地域の共通の社会的・文化的なものが利用されるということになるのかもしれない。

上のように、国民国家論から批判はあり得るだろうが、東アジア地域を分析することによって、19-20世紀に国民国家を形成した地域にのみ焦点を当てるという暗黙の目的論的態度を回避することができるという[6]。この分析を通して、国家形成の西洋的モデルが近代国家への唯一つの道と見なされなくなれば、近代国家はいかにあらねばならないのかという性格づけ[7]も、より開かれた議論の対象となる可能性が指摘されている。その結果、我々が、「近代」国家にとって、基本的だと与えられていた特徴、例えば教会と国家との分離、或いは、国家に対比される市民社会の発展などは、単なる可能性に過ぎず、すべての事例に通用するとは限らないことになる。19世紀から20世紀の東アジア分析をすることによって、我々は多様な近代国民国家の可能性を見つけることができるのではないかと示唆されている。

近代国民国家の選択肢が広がることによって、「より良い」近代国民国家が構想されることは考えられるが、今日においては、その国民国家の限界が言われているのも、事実である。以下では、簡単に、国民国家の限界について見ていくことにする。

○国民国家の限界

ここ100年を振り返ってみると、第1次世界大戦、第2次世界大戦など、国民国家による大戦争が想起される。その後の、冷戦期においても、米ソによる核の軍拡、または朝鮮戦争やベトナム戦争など、国民国家の暴力装置としての役割が強く印象づけられる時代である。ただ、同時に、その時代は、脱植民地化の時代でもあり、多くの民族が、または、旧植民地が、国民国家の建設を求めた。こうした諸国は、植民地化されていなかったら、ありえたであろう近代化の姿から大きく歪められた形になることが考えられる。

もちろん、この国民国家化の流れや、国民国家に関しては、批判だけではなく、肯定的に捉えることができる面もあることは明らかであろう。ただし、歴史的な事実を考えた時に、肯定的な側面だけを持つことは絶対にできず、両方から捉える事が必要なのであろう。また冷戦期は、その国民国家を乗り越える時代でもあった。

今も、統合への過程を進んでいるEUなどは、その最も大きな例であろう。この統合への深化の最初の動機には、独仏間での戦争、また、ヨーロッパにおける戦争を、阻止しようというところから始まったと見ることもできる。他にも、冷戦から冷戦以後になると、NGOやNPOなどが、国境を越え、その活躍の場を広めている。こうした新たな試みは、国民国家の不足を補い、または、その問題を解決していくのに大きな役割を果たしていると言えるだろう。ただ、こうした国民国家を乗り越えようとする動きは、肯定的な側面ばかりではない。多国籍企業、グローバル企業や、巨大なファンドなどは、国民国家以上に、その経済力をつけつつある。

アジア通貨危機などは、そうしたファンドの行動が大きな作用を及ぼし、国民経済を破壊したとも言われている。昨今の、資源高も、その背景の一つには、投機マネーの存在があることが指摘され、国民国家を超えた経済プレイヤーが世界を動かしていることがわかる。もちろんではあるが、こうした巨大経済プレイヤーは否定的な側面だけではなく、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツなどは、その創業者利益を、世界の貧困などのために、費やすなどの試みがなされている。 国民国家の限界や、危険性、または、肯定的な側面も、歴史的な事実から、言うことができるだろう。こうした中で、近年においては、国民国家論などの、国民国家を全体として批判する試みがなされるようになっている。以上のように、国民国家が、さまざまな段階を経てきて中で、そのあり方自体を、批判的に見ていくことは非常に必要であると考える。
 
まだ、国民国家を超える方向性に関して、19世紀から20世紀の東アジアを地域として分析することを通して、何かしら、将来への方向性が見えてくるかは不明ではあるが、ロイ・ビン・ウォンは、その点、肯定的にとらえているように思われる。ただ、その国民国家を超える一つの試みとして、ヨーロッパの統合を見ることはできると思われる。

○日本の近代化
 
以上、今日の東アジアにおける統合の深化と、東アジアを地域として捉える事によって、東アジアの文化・社会的基盤を見つけることができるのではないかという議論、そして、近代国民国家の限界と、その方向性について、大まかに見てきた。
 
次に、日本がいかにして、東アジアの中心たる地位を獲得するようになり、また、今、どのような段階にあるのかを見てみよう。日本は、アジアで最初に、近代化することに成功した。帝国の形成を鼓舞し、帝国を持続するためには、統合を正当化するにたる基本理念あるいは基本原理に支えられることが必要であると言う[8]。日本は、東アジアにおける「文明化」を伝えるための役割や、アジア黄色人種のリーダーとしての役割を買って出たように思われる。そうした帝国として出現した日本は、中国に代わり、東アジアの中心たる地位を獲得するに至る。結果、中国の地中海は次第により大きな「東アジア」の中に組み込まれていったとある。最初は地域の植民地統合を目指す日本の軍事力によって、第2次世界大戦後には、この地域と強い関係を作り上げた日本の経済進出によって、より大きな「東アジア」に組み込まれていったとある。ただし、1980年代以降「東アジア」の構造は、中国の経済成長がもたらした新たな関係によって挑戦を受けていると言っている[9]

○「東アジア」の構造

東アジアの発展の構図について、簡単化して、歴史的に振り返ってみよう。第2次世界大戦後、東アジア諸国は、次々と、独立していく一方で、「冷戦」の中、それぞれの道を歩んでいくことになる。そこで、ひときわ目立つ経済発展を最初に遂げたのが西側陣営の日本である。日本は、「中進国」として、戦後当初は進んでいくことになった。1950年から1973年までのGDP成長率は年率9.2%で、これは同じように戦後高度成長を記録した西欧諸国を大きく上回る結果となった。その結果、日本の産業構造は大きく変化し、そして、1964年にはOECDに加盟するなど、先進諸国の仲間入りを果たすまでに発展するに至った。

この高度経済成長の要因については、農村からの人口移動や、経済政策の成功、アメリカの援助など多くが指摘されている。東アジアとの交易から、天然資源を獲得し、また、日本の比較的に競争力のなかった製品の市場としての役割があったということは指摘できよう。次に、1970年代に入る頃から、韓国、台湾、香港、シンガポールといった「四匹の龍」が登場してくる。これらの諸国地域はアジアNICS、NIESと呼ばれ、世界の奇跡として称賛されていくことになる。さらに、その後、東アジアの他の諸国、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア等のASEAN諸国が発展を遂げていくことになる。近年、特に、注目を集めている中国も発展を始めた。1978年末に経済改革、対外開放、「緑の革命」に踏み出し、90年代に入ってから、際立った経済発展を実現していくことになった。そして、中国近辺のベトナム、カンボジア、ラオス等も、90年代以降、一気に改革、開放の道に踏み込んでいくのであった。

そして、1995年以降には、東南アジア諸国は、先行するシンガポール、タイ、マレーシアなどの「先進国」と、ベトナム、カンボジア、ラオス等の「後発国」が、一つの新たなASEANとしてまとまり、新たな時代に進もうとしている。そして、1997年以降のアジア通貨危機において、「東アジア共同体」の議論が盛り上がるようになり、今日に至るのである。

「冷戦」期においては、西側陣営の日本、韓国、台湾などの地域諸国の発展が進み、「冷戦」の緊張緩和、そして、崩壊を契機に、中国やベトナムなどの東側陣営の経済発展が進んできた。そして、今日、その西、東の枠組みが崩壊し、その枠を越えて東アジア全体、そして、世界全体と同時に、経済発展が進んでいる段階にあると言えよう。

こうした、中国は台頭してきたし、そのことは、日本に対して大きな脅威を与えているように思われる。日本は、敗戦以後、地域の中心的な地位にいたことは確かであろうが、その対外政策は、アメリカに規定されるなど、明らかに、戦前の帝国と呼ばれた時代とは異なる。特に、東アジア諸国とは、戦前の大東亜共栄圏などの歴史的間違いのために、ヨーロッパのような統合の試みを行うことはできなかった。

ただし、その状況も、90年代後半の東アジアにおける通貨危機以後は変化があり、日本を中心とするアジア開発銀行が作られるなど、その様子は、変化しつつあるように思われる。ところが、上でも確認したように、その背景には、中国の台頭があり、日本が、そうした役割を果たさなければ中国に果たされて、日本の中心的な地位が失われるという危機感があったのかもしれない。
 
以上のような、東アジアの構造の変化は、日本と中国の東アジアにおける中心国の戦いになるのかどうかについては不明である。ただし、ヨーロッパ統合のような何かしら、国民国家を超えるような取り組みを行わないと、その大国間での、緊張関係は高まるのではないかと、思われる。

○まとめ
 
東アジアをどのように見るのかについて考えてきた。政治の面における統合への契機は高まりつつあることは確かそうである。また、経済面においても、日本企業の中国進出や、ベトナム進出など、相互依存は進展しているように思われる。ただし、先日の竹島問題のような問題が出てくれば、このような進展は、容易に、基に戻ってしまいそうである。国民国家の限界については、歴史を振り返れば多く散見できる。

こうした問題を乗り越えるためにも、ヨーロッパ統合のような、国民国家を超える取り組みが求められているように思われる。
 
そして、その前提には、さまざまなものが求められるだろうが、ロイ・ビン・ウォンが主張したように、東アジアという地域の中に、文化的社会的なつながりを見出す試みが必要であり、近代以前の東アジアについて、見てみることは必要であろう。こうした中で、東アジア共通の近代の枠組みなどが見出されることにつながることが期待される。結果、欧米とは違った意味での近代の可能性が見出されることになる。
 
1980年代以降の中国の経済発展の結果、日本は、その東アジアの中心としての地位が揺らぎ始めている。冷戦期においても、日本は、対外政策についても、アメリカのもとにあり、また、大東亜共栄圏の間違いもあり、そのため、東アジアにおける中心的な地位も強いものではない。中国の台頭に、どのように、対応していくのかが問われている。その中で、東アジア共同体、および、国民国家を超えるような試みが期待されている。


参考文献:
・ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」『思想』937号、岩波書店、2002年。
・山本有造「『帝国』とはなにか」山本有造編『帝国の研究』名古屋大学出版会、2003年。

参考資料:
・2007年11月20日「東アジア協力に関する第二共同声明」外務省ホームページ。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/asean+3/syunou.html
[1] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」『思想』937号。
[2] 山本有造「『帝国』とはなにか」山本有造編『帝国の研究』
[3] 2007年11月20日「東アジア協力に関する第二共同声明」外務省ホームページ。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/asean+3/syunou.html
[4] 同上。「われわれは、東アジア統合は、相互利益のための開かれた、透明で、包括的な、前向きなプロセスであることを改めて強調し、域内の平和、安定、民主主義及び繁栄を達成するために国際的に共有された価値を支持する。東アジア域内及び域外の永続的な平和と繁栄の共有に向けたビジョンに導かれ、われわれは、新たな経済の流れ、進化しつつある戦略的な相互作用、並びに、変化と新たな力学に対応可能な開かれた地域アーキテクチャーの実現に向けてすべての関心国及び機関を引き続き関与させるとの信念に今後も導かれていく。」
[5] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.24
[6] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.26-27を参照。
[7] ヨーロッパで国家建設をなしとげた者は、関連しあう次の3つの事業を成就しなければならなかった。①領域国家の枠組みのなかでの新たな権力と権威に服するよう、エリート層を説得すること。②これらのエリート層と庶民からかつてない大量の税を徴収すること。③税収による貨幣を用いて軍隊を設立し権力闘争にそなえること。
 ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.16。
[8] 山本「『帝国』とはなにか」p.12を参照。
[9] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.24を参照。

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