2008年6月23日月曜日

鎌田慧『ぼくが世の中に学んだこと』

日本の近代的な工業社会を底辺から支えている人々に焦点を当てた作品。僕たちは、どのような社会に生きているのかを考えさせられる。

僕は、今、学生である。社会を「砂漠」としてとらえた時に、ほんとに、僕は「オアシス」のような、隔離された空間に生きているのだということを実感。

鎌田慧『ひとり起つ』

たったひとりの発言・行動が人々に勇気をあたえ確実に社会を変える!
反骨・異端のすすめ

梶山寿子『トップ・プロデューサーの仕事術』

●人物
五味一男
佐藤可士和
亀山千博
はたけ
石原恒和
森昌行
福原秀己
石川光久
李鳳宇

2008年6月8日日曜日

「戦後歴史学」と、その役割

国内・国外ともに、抱える問題は多い。「格差社会」や、食料不足・高騰、環境破壊など、私たちが取り組まなければいけない問題が広がっている。一人一人が積極的にコミットメントすることによって、より良い方向性に持って行く可能性を有している。私たち一人一人が、問題に積極的になることができるかが問われているということができるだろう。
 
こうした問題に歴史学は、どのように対峙するのか。永原は「現代・近未来に生きる国民に向けて、『現代』とは何かということを、可能な限り明快な形で提示することは、今日の歴史学に課せられたもっとも大きな責任であろう。・・・時代に背を向けたアカデミズムというものはもはや存立の余地がないし、自分で決めた小さな『専門』にだけとじ込もることは許されない[1]」と言う。問題をより良い方向に持って行くために、より明快に「現代」を示すことが歴史学に求められているということができるであろう。

さて、現代歴史学は、中核的な位置を占めてきた「戦後歴史学」が、その位置を減じ、さまざまな方法が展開している状況にあると言えよう。「戦後歴史学」に対抗する形で、数量経済史を引き継ぐ歴史人口学、ポランニーの経済人類学、ウォーラスティンの世界システム論や、ポストモダンの歴史学などが流入し、大きな影響力を持ちつつある。このレポートでは、こうした歴史学の状況を踏まえ、「戦後歴史学」とは何か、そして、その時代的な役割について見ていくことにしたい。

まずは、「戦後歴史学」とは何か、について見る。「戦後歴史学」の中核を占めたのは、マルクス主義歴史学、丸山思想史、大塚史学であった。1945年のアジア・太平洋戦争敗戦を受けて、侵略戦争に帰結した近代日本の歴史の歪み、すなわちヨーロッパ先進国と比較しての後進性、封建性、前近代性を解明しようとしたのが「戦後歴史学」の課題であった。

大塚久雄や丸山真男、他にも、松田智雄、高橋幸八郎、川島武宜に代表される、いわゆる「近代主義」グループは、マルクス主義理論家・歴史家とならんであるいはそれよりも一歩先んじて、日本近代社会のありかたに対して鋭い提起をし、戦後社会の歴史的位置と進むべき方向を提示しようと試みられた。「近代主義」グループは、戦後改革を日本社会の自己改革の問題としてそれぞれ鋭い切り口から主体的に考えていったものであった。そこで共通するのは、戦前日本社会が、「近代」としては西欧市民社会的近代に比べて、いかに「後進」「未熟」もしくは「歪んだ」ものであったのか、したがって戦後改革はそれをいかにして「西欧的近代」をふまえて理念化された、「より純化・成熟した近代」に進化させるかということにあった。日高は、「近代」について「共同体規制や企画版となった旧慣や動きのとれなくなった儀式主義など―要するにいわゆる『閉じた社会』を象徴するいっさいからの精神の解放であり、主体の自立であり、そして自立した主体の間の平等な人間関係の確立であった」としている[2]

このように「近代主義」グループの日本の戦前近代のこうした「歪み」「未熟」
「前近代性」「アジア的」などと表現される側面の克服が日本の民主主義革命として欠かせないと見る点で、マルクス主義の講座派の日本資本主義論の基底にある社会認識と共通するところが大きかった。

個の確立ともいうべきものは、西欧ではかつてプロテスタントが古いルーティンに反抗して獲得したものであり、フランス大革命にさいして市民が確立しようとしたものであり、明治維新以後日本の知識人の多くがそれぞれのニュアンスを含みながら、志向したものであった。しかも、それは決して、ブルジョア的市民社会という場のなかだけで必要とされるモラル、あるいは確立されたモラルということにとどまらず、人民のなかに樹立されなければいけないモラルでもあった。  

こうした日本の戦前を「歪み」「未熟」「前近代性」「アジア的」などと見る見方は、さかのぼって考えてみると、明治維新以後の福沢諭吉などの知識人の多くが認識していた日本の後進性の自覚を継承するものといって差し支えないであろう。

ただし、相違する部分もあった。「近代主義」グループは戦後社会の方向について、「近代」の「純化」「発展」を論理的にも現実的にもいわば到達点としていた。他方、マルクス主義は、この「近代」を「通過駅」と考えていた。つまり、「近代主義」グループにおいては、講座派が強く指向した資本主義の矛盾とその克服の方向については、その論理のなかに組み込んでいなかったのである。また、逆に、「近代」を「通過駅」として捉える事を拒否していたということもできるであろう。

以上のように、「戦後歴史学」は、アジア・太平洋戦争の敗戦を受けて、そこからの再スタートという現実問題に対応して出てきていることが確認された。そして、そこにはマルクス主義と「近代主義グループ」との共通の認識、つまり、日本社会を「歪み」「未熟」「前近代性」「アジア的」などと見る見方があった。そして、「近代」に向かって、戦後改革を進めていくことが、現実的な問題として求められていた。しかし、その到達点は違った。「近代」を「通過駅」とする見方と、それを到達点とする見方との違いであった。

次に、「戦後歴史学」に対する批判を、2つだけ確認していくことにする。「戦後歴史学」は、マルクス歴史学でも近代主義歴史学でも、日本の当面の社会変革の性質を大まかには「封建制から近代へ」という社会構成体の移行問題の枠組を土台において考えていた[3]。もちろん、戦前の社会が「封建制」そのものというわけではないが、日本資本主義と構造的に結合していた半封建的諸関係の克服が、当面の私的課題として強く認識されていた。このような認識は、日本歴史の全過程を社会構成体の展開史のなかで理解するということにもなるから、マルクスが『経済学批判』のなかで「概略的にみて、アジア的・古代的・封建的・近代ブルジョア的生産様式をもって経済的社会構成の進歩の諸段階とすることができよう」といったところを、どのように理解するのかということに関わってきた。戦後歴史学は日本の歴史的社会の諸段階をこの指摘に従って、時代区分し、理解しようという志向を強く持っていた。

しかし、もともと人類史的「普遍」としての抽象化された理論的認識であって、一国の具体的史実についての発言ではなく、どの民族・社会も画一的にそのような社会構成の段階的前進の道を歩むということではない。その上、マルクスのいう「アジア的」というものが原始社会のことをさすのか階級社会の第1段階をさすのか、または、それをなぜ「アジア的」というのかも、かならずしもはっきりしなかった。

こうした理論的な曖昧性は、多くの論争を生んだ。そして次のような共通理解が確認されていくことになる。①一国史については社会構成体の諸段階を機械的に見出そうとするような見方の不適当さ、②「社会構成体」のような理論範疇は、現実の歴史においては、複雑多様な存在形態を示すこと、③一つの歴史段階においては、基本的生産様式・階級関係と、それと複雑的結合性をもつ副次的生産様式・階級関係が同時的に存在すること、④一国社会の釈迦構成体のあり方や移行のあり方は、国際的な条件によって強い規定性を受けること、が共通理解と進み、変革期としての「戦後期」が一段落するようになると、論争も収束することになった。

こうした論争過程で、マルクス歴史学の理論に強い疑いを持ち、「封建制」という社会構成体概念を歴史認識の道具として使用することを拒否する意見や、「ファシズム」概念の使用を拒否するなどの戦後歴史学の普遍主義・科学主義に対する拒否する意見が出てきた。後者の意見は、地球規模での人類史の多様な発展とその同時的存在を科学的に認識することを困難とし、さまざまな方法による歴史認識の交流の拡大の道を狭める役割を持つことになった。

もう一つの「戦後歴史学」批判について見ていくことにする。上でも見たように、大塚の認識した日本の「歪んだ近代」は、欧米留学によって、ヨーロッパ的近代と日本の現実を痛感した明治知識人たちの皮膚で感じた日本近代観にも通じている。そのことから、「本物の近代」に如何にしてなるのかについては、明治の知識人から戦後の近代主義知識人へと継承された歴史認識、後進性の自覚そのものであった。また、このことは、戦後日本社会において、多くの人々にも、実感として受け入れられやすいものであった。大塚史学の「西欧的近代」と「日本の近代」との類型比較という方法は、半面では19世紀以来のヨーロッパ人のアジア観=アジア的停滞性論に通じる性格を持っている。日本は「純粋の近代」に到達できていないという自己認識は、一面では「進歩」に向けての思想的エネルギーとなったが、半面では、アジア・日本の後進性・停滞性の承認に通じていることは否定することはできない。大塚史学の構想に対しては「余りにもバラ色のヨーロッパ近代」という批判とともに、「近代」というものも具体的にはもとより歴史的多様性を持っているものだ、一つの「近代」を理想化し、それに一致しないものは「遅れている」「歪んでいる」とする歴史認識は方法として適切ではないという批判が高まった。

以上、「戦後歴史学」に対する批判について、2つだけ確認した。アジア・太平洋戦争の経験によって、日本の「遅れ」「歪み」について実感を持って、受けいれられ、また、戦前そして戦後の社会主義・共産主義への期待はマルクス主義の需要を促す働きをした。ところが、日本の「遅れ」「歪み」は一面的であり、また、マルクス主義の理論についても、その曖昧性が批判されることになった。

「戦後歴史学」について簡単化して見てきたが、その歴史学は、強く時代に規定されていたことが分かる。そのため、日本の高度経済成長は、日本の前近代性的認識を弱めることになり、また、マルクス主義への需要も減少することになる。このように「戦後歴史学」を振り返った時に、今日の歴史学の課題とは何かということを考えざるを得ない。「現代」を明確に描くための歴史学が求められている。「戦後歴史学」という学問的な蓄積を踏まえた上で、考えていくことが必要であろう。

参考文献:
① 永原慶二『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館、2003年。
② 日高六郎「戦後の『近代主義』」日高六郎編『現代日本思想体系34 近代主義』筑摩書房、1964年。
③ 森武麿「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争』岩波書店、2005年。

[1] 永原慶二『20世紀日本の歴史学』p.277。
[2] 日高「戦後の『近代主義』」p.28。
[3]永原慶二『20世紀日本の歴史学』p.174を基に、以下記述を行う。