2008年7月31日木曜日

駄作:東アジアをどのように考えるのか

○はしがき
 
日本は、アジアで最初に「近代化」を成功することができた国であり、そういう意味では、日本は、欧米諸国と近い関係にあると言えよう。しかし、日本の地理的な環境は、明らかに、アジアであり、東アジア圏内に属することは、自明であると言えよう。こうした中で、一つには、ヨーロッパの統合の深化に刺激され、また、別の面としては、世界的な(戦前のブロック圏とは違うと思われる、開かれた)地域圏構想の中において、日本も、昨今、東アジアの地域において、積極的に、コミットしているように思われる。というよりは、この流れに乗り遅れては、経済的な損失が大きいということを認識しているからであると思われる。日本は、アジア・太平洋戦争の結果、地域構想への取り組みが遅れてきたと言われている。
 
このレポートでは、この東アジア地域をどのように考えていくのかについて、ロイ・ビン・ウォン[1]と山本有造[2]の著作に依拠しつつ、論じていきたいと思う。まず、最初に、東アジア統合の進展と、その時に、避けては通ることができない国民国家について、簡単に考えていくことにする。

○東アジアにおける統合の進展

2007年11月に、ASEAN+3首脳会議が開かれるなど、東アジアにおいて、「公式の統合」は進んでいる。この会議の共同声明として、次のように、これまでの、そして、これからの東アジアの国際秩序が展望された。「われわれは、過去10年間の成果を振り返り、既存の協力を強化し、ASEAN+3協力の将来の方向性を提示した。ASEAN+3協力は、ASEAN共同体を実現するために引き続きASEAN統合を支持すると同時に、長期目標としての東アジア共同体の形成に貢献するものである。[3]
 
1997年~1998年のアジア金融危機を契機始まったASEAN+3プロセスが、長期的には、「東アジア共同体」形成までを視野において進展していることは、東アジアにおいて、少なくとも国家間のレベルで、新しい国際秩序[4]を作り出そうという機運が高まっていることを示している。しかし、現段階においては、これからの東アジア国際秩序、また、「東アジア共同体」のあり方は、不透明である。このことは、逆に、これからの取り組み如何によって、そのあり方が変わるということを示している。

さて、「東アジア共同体」、そして、これからの東アジア国際秩序を考えるに当たって、一つのベンチマークとなるのが、ヨーロッパにおけるEU統合である。ヨーロッパにおける統合の方法が、即座に、東アジアで適応することができるということはないであろうが、その統合の過程を見ることで、私たちは多くの示唆を得ることが出来る。また、その統合の結果としての経済的な利益や安全保障上の利益などを見ていると、私たちは、それに魅了され、憧れさえもってしまう。このように、EU統合のアプローチを「直接的」には利用はできないが、「間接的」に、利用していくことになるのだろう。

ところで、ステレオタイプではあるが、EU統合の「成功」の要因として、「ヨーロッパ的価値」の共有や、経済的な発展などの同質性を挙げることがある。そして、それを持って、同質性が低いから、「東アジア共同体」は難しいとされる。確かに、東アジアは、経済的な発展の度合いで言えば、日本のように成熟国家がある一方で、中国のように、今まさしく、経済発展している国もある。また、何かしらの価値の共有が、なされているとも考えにくい。よって、「東アジア共同体」への道が困難であるということは分かる。

しかし、こうした限界は、地域としての東アジアへの関心を喪失し、近代世界の基準で考えたからなのではないかと、ロイ・ビン・ウォンは言う[5]。そうした近代に捉われた見方をする結果、日本のように、近代化に成功した社会は欧米社会との似た様相を呈してくるために、未だ近代化していない国々とは、大きく異なっている・少なくとも同質ではないと判断することになるのであろう。また、東アジアにおいて、今日のように経済や政治または文化においても、活発に交流が進むと、その経済行動や政治政策を考える上で有意義な文脈ででしか分析されていないことも大きな問題としてあると指摘している。

こうした文脈においては、先立って存在した、その地域の分析などは意味がないように思われていると指摘されている。ロイ・ビン・ウォンは、こうした状況において、「東アジア地域、および、かつて中国の地中海であったものの内部での近年の活動の重要性に着目することによって、我々は政治や経済に関する研究をより精密なものとし、また、グローバルな分析枠組みにおいて従来除去されがちであった社会的・文化的なコンテクストをもって我々の研究課題を豊かにすることができるであろう」と言っている。

つまり、こうした取り組みは、従来の近代的見方ではとらえられなかった、東アジア地域における共通の文化的・社会的基盤を明らかにすることにつながり、これは、将来の東アジア共同体構想などを考えていくにあたって、非常に重要な役割を果たすことが期待できるであろう。ただし、これも、近年の国民国家論的文脈で言えば、共同体を創造するために、こうした地域の共通の社会的・文化的なものが利用されるということになるのかもしれない。

上のように、国民国家論から批判はあり得るだろうが、東アジア地域を分析することによって、19-20世紀に国民国家を形成した地域にのみ焦点を当てるという暗黙の目的論的態度を回避することができるという[6]。この分析を通して、国家形成の西洋的モデルが近代国家への唯一つの道と見なされなくなれば、近代国家はいかにあらねばならないのかという性格づけ[7]も、より開かれた議論の対象となる可能性が指摘されている。その結果、我々が、「近代」国家にとって、基本的だと与えられていた特徴、例えば教会と国家との分離、或いは、国家に対比される市民社会の発展などは、単なる可能性に過ぎず、すべての事例に通用するとは限らないことになる。19世紀から20世紀の東アジア分析をすることによって、我々は多様な近代国民国家の可能性を見つけることができるのではないかと示唆されている。

近代国民国家の選択肢が広がることによって、「より良い」近代国民国家が構想されることは考えられるが、今日においては、その国民国家の限界が言われているのも、事実である。以下では、簡単に、国民国家の限界について見ていくことにする。

○国民国家の限界

ここ100年を振り返ってみると、第1次世界大戦、第2次世界大戦など、国民国家による大戦争が想起される。その後の、冷戦期においても、米ソによる核の軍拡、または朝鮮戦争やベトナム戦争など、国民国家の暴力装置としての役割が強く印象づけられる時代である。ただ、同時に、その時代は、脱植民地化の時代でもあり、多くの民族が、または、旧植民地が、国民国家の建設を求めた。こうした諸国は、植民地化されていなかったら、ありえたであろう近代化の姿から大きく歪められた形になることが考えられる。

もちろん、この国民国家化の流れや、国民国家に関しては、批判だけではなく、肯定的に捉えることができる面もあることは明らかであろう。ただし、歴史的な事実を考えた時に、肯定的な側面だけを持つことは絶対にできず、両方から捉える事が必要なのであろう。また冷戦期は、その国民国家を乗り越える時代でもあった。

今も、統合への過程を進んでいるEUなどは、その最も大きな例であろう。この統合への深化の最初の動機には、独仏間での戦争、また、ヨーロッパにおける戦争を、阻止しようというところから始まったと見ることもできる。他にも、冷戦から冷戦以後になると、NGOやNPOなどが、国境を越え、その活躍の場を広めている。こうした新たな試みは、国民国家の不足を補い、または、その問題を解決していくのに大きな役割を果たしていると言えるだろう。ただ、こうした国民国家を乗り越えようとする動きは、肯定的な側面ばかりではない。多国籍企業、グローバル企業や、巨大なファンドなどは、国民国家以上に、その経済力をつけつつある。

アジア通貨危機などは、そうしたファンドの行動が大きな作用を及ぼし、国民経済を破壊したとも言われている。昨今の、資源高も、その背景の一つには、投機マネーの存在があることが指摘され、国民国家を超えた経済プレイヤーが世界を動かしていることがわかる。もちろんではあるが、こうした巨大経済プレイヤーは否定的な側面だけではなく、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツなどは、その創業者利益を、世界の貧困などのために、費やすなどの試みがなされている。 国民国家の限界や、危険性、または、肯定的な側面も、歴史的な事実から、言うことができるだろう。こうした中で、近年においては、国民国家論などの、国民国家を全体として批判する試みがなされるようになっている。以上のように、国民国家が、さまざまな段階を経てきて中で、そのあり方自体を、批判的に見ていくことは非常に必要であると考える。
 
まだ、国民国家を超える方向性に関して、19世紀から20世紀の東アジアを地域として分析することを通して、何かしら、将来への方向性が見えてくるかは不明ではあるが、ロイ・ビン・ウォンは、その点、肯定的にとらえているように思われる。ただ、その国民国家を超える一つの試みとして、ヨーロッパの統合を見ることはできると思われる。

○日本の近代化
 
以上、今日の東アジアにおける統合の深化と、東アジアを地域として捉える事によって、東アジアの文化・社会的基盤を見つけることができるのではないかという議論、そして、近代国民国家の限界と、その方向性について、大まかに見てきた。
 
次に、日本がいかにして、東アジアの中心たる地位を獲得するようになり、また、今、どのような段階にあるのかを見てみよう。日本は、アジアで最初に、近代化することに成功した。帝国の形成を鼓舞し、帝国を持続するためには、統合を正当化するにたる基本理念あるいは基本原理に支えられることが必要であると言う[8]。日本は、東アジアにおける「文明化」を伝えるための役割や、アジア黄色人種のリーダーとしての役割を買って出たように思われる。そうした帝国として出現した日本は、中国に代わり、東アジアの中心たる地位を獲得するに至る。結果、中国の地中海は次第により大きな「東アジア」の中に組み込まれていったとある。最初は地域の植民地統合を目指す日本の軍事力によって、第2次世界大戦後には、この地域と強い関係を作り上げた日本の経済進出によって、より大きな「東アジア」に組み込まれていったとある。ただし、1980年代以降「東アジア」の構造は、中国の経済成長がもたらした新たな関係によって挑戦を受けていると言っている[9]

○「東アジア」の構造

東アジアの発展の構図について、簡単化して、歴史的に振り返ってみよう。第2次世界大戦後、東アジア諸国は、次々と、独立していく一方で、「冷戦」の中、それぞれの道を歩んでいくことになる。そこで、ひときわ目立つ経済発展を最初に遂げたのが西側陣営の日本である。日本は、「中進国」として、戦後当初は進んでいくことになった。1950年から1973年までのGDP成長率は年率9.2%で、これは同じように戦後高度成長を記録した西欧諸国を大きく上回る結果となった。その結果、日本の産業構造は大きく変化し、そして、1964年にはOECDに加盟するなど、先進諸国の仲間入りを果たすまでに発展するに至った。

この高度経済成長の要因については、農村からの人口移動や、経済政策の成功、アメリカの援助など多くが指摘されている。東アジアとの交易から、天然資源を獲得し、また、日本の比較的に競争力のなかった製品の市場としての役割があったということは指摘できよう。次に、1970年代に入る頃から、韓国、台湾、香港、シンガポールといった「四匹の龍」が登場してくる。これらの諸国地域はアジアNICS、NIESと呼ばれ、世界の奇跡として称賛されていくことになる。さらに、その後、東アジアの他の諸国、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア等のASEAN諸国が発展を遂げていくことになる。近年、特に、注目を集めている中国も発展を始めた。1978年末に経済改革、対外開放、「緑の革命」に踏み出し、90年代に入ってから、際立った経済発展を実現していくことになった。そして、中国近辺のベトナム、カンボジア、ラオス等も、90年代以降、一気に改革、開放の道に踏み込んでいくのであった。

そして、1995年以降には、東南アジア諸国は、先行するシンガポール、タイ、マレーシアなどの「先進国」と、ベトナム、カンボジア、ラオス等の「後発国」が、一つの新たなASEANとしてまとまり、新たな時代に進もうとしている。そして、1997年以降のアジア通貨危機において、「東アジア共同体」の議論が盛り上がるようになり、今日に至るのである。

「冷戦」期においては、西側陣営の日本、韓国、台湾などの地域諸国の発展が進み、「冷戦」の緊張緩和、そして、崩壊を契機に、中国やベトナムなどの東側陣営の経済発展が進んできた。そして、今日、その西、東の枠組みが崩壊し、その枠を越えて東アジア全体、そして、世界全体と同時に、経済発展が進んでいる段階にあると言えよう。

こうした、中国は台頭してきたし、そのことは、日本に対して大きな脅威を与えているように思われる。日本は、敗戦以後、地域の中心的な地位にいたことは確かであろうが、その対外政策は、アメリカに規定されるなど、明らかに、戦前の帝国と呼ばれた時代とは異なる。特に、東アジア諸国とは、戦前の大東亜共栄圏などの歴史的間違いのために、ヨーロッパのような統合の試みを行うことはできなかった。

ただし、その状況も、90年代後半の東アジアにおける通貨危機以後は変化があり、日本を中心とするアジア開発銀行が作られるなど、その様子は、変化しつつあるように思われる。ところが、上でも確認したように、その背景には、中国の台頭があり、日本が、そうした役割を果たさなければ中国に果たされて、日本の中心的な地位が失われるという危機感があったのかもしれない。
 
以上のような、東アジアの構造の変化は、日本と中国の東アジアにおける中心国の戦いになるのかどうかについては不明である。ただし、ヨーロッパ統合のような何かしら、国民国家を超えるような取り組みを行わないと、その大国間での、緊張関係は高まるのではないかと、思われる。

○まとめ
 
東アジアをどのように見るのかについて考えてきた。政治の面における統合への契機は高まりつつあることは確かそうである。また、経済面においても、日本企業の中国進出や、ベトナム進出など、相互依存は進展しているように思われる。ただし、先日の竹島問題のような問題が出てくれば、このような進展は、容易に、基に戻ってしまいそうである。国民国家の限界については、歴史を振り返れば多く散見できる。

こうした問題を乗り越えるためにも、ヨーロッパ統合のような、国民国家を超える取り組みが求められているように思われる。
 
そして、その前提には、さまざまなものが求められるだろうが、ロイ・ビン・ウォンが主張したように、東アジアという地域の中に、文化的社会的なつながりを見出す試みが必要であり、近代以前の東アジアについて、見てみることは必要であろう。こうした中で、東アジア共通の近代の枠組みなどが見出されることにつながることが期待される。結果、欧米とは違った意味での近代の可能性が見出されることになる。
 
1980年代以降の中国の経済発展の結果、日本は、その東アジアの中心としての地位が揺らぎ始めている。冷戦期においても、日本は、対外政策についても、アメリカのもとにあり、また、大東亜共栄圏の間違いもあり、そのため、東アジアにおける中心的な地位も強いものではない。中国の台頭に、どのように、対応していくのかが問われている。その中で、東アジア共同体、および、国民国家を超えるような試みが期待されている。


参考文献:
・ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」『思想』937号、岩波書店、2002年。
・山本有造「『帝国』とはなにか」山本有造編『帝国の研究』名古屋大学出版会、2003年。

参考資料:
・2007年11月20日「東アジア協力に関する第二共同声明」外務省ホームページ。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/asean+3/syunou.html
[1] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」『思想』937号。
[2] 山本有造「『帝国』とはなにか」山本有造編『帝国の研究』
[3] 2007年11月20日「東アジア協力に関する第二共同声明」外務省ホームページ。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/asean+3/syunou.html
[4] 同上。「われわれは、東アジア統合は、相互利益のための開かれた、透明で、包括的な、前向きなプロセスであることを改めて強調し、域内の平和、安定、民主主義及び繁栄を達成するために国際的に共有された価値を支持する。東アジア域内及び域外の永続的な平和と繁栄の共有に向けたビジョンに導かれ、われわれは、新たな経済の流れ、進化しつつある戦略的な相互作用、並びに、変化と新たな力学に対応可能な開かれた地域アーキテクチャーの実現に向けてすべての関心国及び機関を引き続き関与させるとの信念に今後も導かれていく。」
[5] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.24
[6] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.26-27を参照。
[7] ヨーロッパで国家建設をなしとげた者は、関連しあう次の3つの事業を成就しなければならなかった。①領域国家の枠組みのなかでの新たな権力と権威に服するよう、エリート層を説得すること。②これらのエリート層と庶民からかつてない大量の税を徴収すること。③税収による貨幣を用いて軍隊を設立し権力闘争にそなえること。
 ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.16。
[8] 山本「『帝国』とはなにか」p.12を参照。
[9] ロイ・ビン・ウォン「国家と世界のあいだ:アジアにおけるブローデルの〈地域〉」p.24を参照。

国民国家論への雑感

「『国民国家論』を、どのように受け止めるのか」

○課題の設定

私たちは、どのような時代を生きているのだろうか。「不透明」であるというのが、この時代を表現する際に、最も適した言葉のように思われる。戦後、「成長」など、私たちの社会を規定する考えが、多くの人々に共有されていたように思われる。しかし、その「成長」が、一部の人を排除するものであったり、その「成長」の限界が指摘されるなどして、そうした社会全体の共有意識というものは崩壊しつつある[1]。こうした状況が、私たちの社会を不透明にする大きな原因であり、こうした時代だからこそ、これまで以上に、一人一人の主体的な取り組みと思考が求められているということができるだろう。
 
ここ100年を振り返ってみると、第1次世界大戦、第2次世界大戦など、国民国家による大戦争が想起される。その後の、冷戦期においても、米ソによる核の軍拡、または朝鮮戦争やベトナム戦争など、国民国家の暴力装置としての役割が強く印象づけられる時代である。ただ、同時に、その時代は、脱植民地化の時代でもあり、多くの民族が、または、旧植民地が、国民国家の建設を求めた。もちろん、この国民国家化の流れや、国民国家に関しては、批判だけではなく、肯定的に捉えることができる面もあることは明らかであろう。ただし、歴史的な事実を考えた時に、肯定的な側面だけを持つことは絶対にできず、両方から捉える事が必要なのであろう。また冷戦期は、その国民国家を乗り越える時代でもあった。今も、統合への過程を進んでいるEUなどは、その最も大きな例であろう。この統合への深化の最初の動機には、独仏間での戦争、また、ヨーロッパにおける戦争を、阻止しようというところから始まったと見ることもできる。他にも、冷戦から冷戦以後になると、NGOやNPOなどが、国境を越え、その活躍の場を広めている。こうした新たな試みは、国民国家の不足を補い、または、その問題を解決していくのに大きな役割を果たしていると言えるだろう。ただ、こうした国民国家を乗り越えようとする動きは、肯定的な側面ばかりではない。多国籍企業、グローバル企業や、巨大なファンドなどは、国民国家以上に、その経済力をつけつつある。アジア通貨危機などは、そうしたファンドの行動が大きな作用を及ぼし、国民経済を破壊したとも言われている。昨今の、資源高も、その背景の一つには、投機マネーの存在があることが指摘され、国民国家を超えた経済プレイヤーが世界を動かしていることがわかる。もちろんではあるが、こうした巨大経済プレイヤーは否定的な側面だけではなく、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツなどは、その創業者利益を、世界の貧困などのために、費やすなどの試みがなされている。
 
国民国家の限界や、危険性、または、肯定的な側面も、歴史的な事実から、言うことができるだろう。こうした中で、国民国家論は、国民国家を全体として批判する試みである。以上のように、国民国家が、さまざまな段階を経てきて中で、そのあり方自体を批判的に見ていくことは非常に必要であると考える。

ここでは、「中間理論[2]」として構築されるべき国民国家論を、どのように受け止めていくのかについて、西川長夫[3]と大門正克[4]の意見を中心に整理し、考えていくことにする。「中間理論」とは、総力戦体制論や、国民国家論、ジェンダー論、「貫戦史」「貫戦期」などの理論のことである。1990年前後の冷戦構造の終焉(ソ連邦崩壊)あたりから、グランドセオリー=「大きな物語」の解体が叫ばれ始め、「歴史学の漂流」が始まり、「大きな物語」に代わって「小さな物語」に向かう人々が出てきた。こうした全体史とのつながりを失った個別研究では、その研究の方向性を失ってしまう。こうした中において、全体史とのつながりを回復するべく「中間理論」が絶対に必要であると言われている[5]。ただ、こうした「中間理論」に関しても、様々な見方があり、今回は、国民国家論について、その違いをできるだけ示す形で、考えていくことにしたい。

○国民国家論
 
最初に、国民国家論について見ていくことにする。国民国家論は、われわれがそのなかに囚われている国民国家を相対化し、対象化し、批判する試みである。西川にとって、国民国家論は少なくとも以下の3点を含むものであるとする[6]。1つ目は、自分自身が囚われている国民国家を全体として、対象化する試みであるということがある。つまり、国民国家論は、国家装置と国民形成の双方を視野に収めると同時に、それを論じる者の言語や思考や感性を問うものであると言う。2つ目は、国民国家論は国民国家批判であり、批判理論としての国民国家論であるということがある。ここ、100年の戦争などの歴史的事実を考えた時に、国民国家論が、批判理論としてなければいけないことは明らかである。その中で、国民国家論は、戦争を生み出す装置や制度をそのままにしての戦争批判とは大きく違い、その装置や制度をも含んで批判していく学問であるという。3つ目は、国民国家論は国民国家が世界的な国家システムのなかに組み込まれており、しかもその世界的な国家システムが(したがって国民国家が)崩壊に向かっているという認識から出発しているという。つまり、短期的には国家の存続はあったとしても、崩壊のさまざまな傾向と兆候を経て、崩壊の過程を進んでいくと見ている。

次に、国民国家に関して、国民国家論は以下4点の考察と判断を含んでいるとしている[7]。①国民国家は歴史的に形成され、時代と場所によって変化し異なった意味をもち(基本構造とヴァリエイション)、初めと終わりがある。②国民国家はそれ自体が矛盾的な構成体であり、その矛盾が原動力であると同時に破壊的にも働くであろう(抑圧と解放、搾取と被搾取、福祉と軍備、戦争機械としての支配と自滅の可能性、等々)。③国民国家は国際関係あるいは世界システムのなかで機能し、平等な国家主権あるいは国民主権といった神話にもかかわらず、中核と周辺、支配―被支配といった世界的差別の構造の中に位置づけられる。そしてその結果として、国民国家はシステムの普遍性をのなかで差異(国民文化、国民性、国民史、国語、国家、国旗、等々)を強調する。④国民国家においては国民の再生産(国民化)が最優先の課題とされる。国家は国民を必要とし、国民は国家装置によって国家にふさわしい存在としてつくられる。
 
以上、国民国家論と、その理論が含意する国民国家について、見てきた。国民国家論は、相対化し、対象化し、批判する学問であり、その批判の対象は、歴史学にまで広がっている。近代歴史学には、以下3点問題があるとしている[8]。①近代歴史学は国民国家の産物であり、国民国家の制度であり、したがって国民国家の一部である。歴史が国民史の形を取るのはその必然的な結果であった。②したがって、近代歴史学が国民国家と運命をともにするのは理の当然であって、歴史学は国民国家とともに終焉をむかえ、歴史記述、つまりジャンルとしての歴史も、消滅するか形を変えるはずである。③そして現に国民国家は崩壊しつつあり、歴史学も崩壊しつつある。逆に言えば、歴史学の変質が国民国家の変質を表しているとする。

国民国家論を使う形で、国民国家を批判してきたのだが、西川はそれに代わるオルタナティヴを提示することはない。逆に、オルタナティヴは歴史とともに、長い考察と批判のあいだにおのずと形成されると述べるなど、よくわからない[9]。つまりは、国民国家論は、批判の学問であり、簡単に、または、安易に、オルタナティヴを提示することはしないということなのであろうか。ただし、ヨーロッパにおける統合について、一つの新しい試みとして見ていることは確かそうである[10]
 
次に、大門の議論を見ていくことにする。大門は、基本的には、国民国家論を受け入れつつも、その理論の含意するオルタナティヴの姿に、「強い個人」があることに対して、強い反発を示している。また、国民国家に含まれた問題性を指摘するだけでなく、国家そのものを忌避する議論が含まれていることに対しても違和感を表明している。結果、「拠点」を定めて、その中で、「近代」について、肯定否定の側面、または、規範とのずれを見る中で、「近代」の意味を明らかにしていこうとしている。また、その「拠点」の中に、「近代」を乗り越えようとする動きを見ようとする。
 
こうした考えのために、人と人のつながりには、個人を抑圧する危険性が含まれていることは認識しつつも、そのつながりの再生に、将来の展望を示している。その抑圧性を、解消していくために、主権を広げていくことが重要であると述べられている。そして、結論部分の表明ではあるが、遠い将来を別にすれば、国家には共同性を担保する必要な役割があると述べている[11]。主権については、憲法などを勉強していくことが必要なのであろう。ただし、国民国家論の議論から、主権についても、批判されており、その点を踏まえると、どうなるのかについても議論する必要があるのではないかと思う。ただ単に、主権を広げれば問題が解決するというほど、問題は易しくはなさそうである。また、国家には共同性を担保する必要があるというが、その共同性を国家が担わなければいけないのかどうかについても疑問がある。アジア・太平洋戦争における政府の政策(満州における政府による市民に対する政策とか)は、政府への信頼を失わせる。国家は、共同性を守ってほしい時に、本当に守ってくれるのだろうか。

○まとめ
 
以上、簡単化して、国民国家論を西川の議論の依拠しながら、まとめてきた。そして、こうした議論を受けて、どのように考えるのかについて大門の議論を使いながら、簡単に見てきた。国民国家論は、西川も強調するように批判の理論のようであり、必ずしも、その先に、オルタナティヴを示せるものでもなさそうである。しかし、理論的に「強い個人」というのを含意していることも、また、確かそうである。そのため、国民国家論を使い、ただ単に、「強い個人」を理想とする議論については、私も強い違和感を覚える。そのため、人と人とのつながりの中に、問題の解決を求めていきたい。大学におけるサークル活動などの活発さを見ていると、人は、人と人とのつながりの中で、生きていき、その中で、解決していくしかないのではないかと思わざるをえない。東京における、県人会の組織などを見ると、人は一人で生きられるほど、強くないし、強くなかったことは確かだ。
 
だからといって、人と人とのつながりが良いとは限らず、それには、抑圧を伴う。それを解決するために、主権を広げるとのことであった。ただし、主権や、または上で見たように、歴史学でさえ、批判されるべき対象であり、私たちは、自分たちが寄って立つ思想を、再度、点検しなおす必要性があるように思われる。そして、このことを可能にしたのが、国民国家論であったのだろう。


参考文献:
・大門正克『歴史への問い/現在への問い』校倉書房、2008年。
・中村政則「グローバリゼーションと歴史学」神奈川大学広報委員会『神奈川大学評論』第56号、2007年。
・中村政則「戦後歴史学と現代歴史学」日本歴史学協会『日本歴史学協会年報』2008年。
・西川長夫「戦後歴史学と国民国家論」歴史学研究会編『戦後歴史学再考』青木書店、2000年。
・日本経済新聞社編『されど成長』日本経済新聞社、2008年。
[1] 日本経済新聞社編『されど成長』日本経済新聞社、2008年は、成長に関して、さまざまな批判があることを多少は踏まえた上で、しかしながら「新しい成長の形」を探そうとする試みであるとしている。
[2] 中村政則「戦後歴史学と現代歴史学」p.4。
[3] 西川長夫「戦後歴史学と国民国家論」歴史学研究会編『戦後歴史学再考』
[4] 大門正克『歴史への問い/現在への問い』
[5] 中村「グローバリゼーションと歴史学」p.171を参照。
[6] 西川「戦後歴史学と国民国家論」p.75-77。
[7] 西川「戦後歴史学と国民国家論」p.110-111を参照。
[8] 西川「戦後歴史学と国民国家論」p.107-108を参照。
[9] 西川「戦後歴史学と国民国家論」p.109-110を参照。
[10]西川「戦後歴史学と国民国家論」p.97。
[11] 大門『歴史への問い/現在への問い』p.60-61を参照。

2008年7月28日月曜日

研究計画書 中国にて

中国やインド、また、他の東アジア諸国の発展など、日本を取り巻く環境は急激に変化している。その中で、日本は翻弄され、その大きな流れの中に、乗り遅れているのではないかと、思わざるをえない時がある。私は、現状はどのようになっているのか、問題は何か、それに対して何をすればいいのかを、積極的に考えていきたいと思う。このインターシップでは、今最も経済的に「熱い」地域を見ること、経験することによって、いま何が起きているのかを現場で考えてみたい。これが、大きな目標である。
 
このインターシップで(今、考えられる範囲において)取り組んでみたいことは、3つある。
 
1つ目は、世界でもっとも「熱い」地域が、どのようになっているのかを見てみたい。具体的には、生産現場は、どのようになっているのか。その周辺は、どのように集積しているのか。交通インフラは、どのようになっているのか。工員の方は、どのように働いているのか。本や、テレビでの知識を土台にして、検証してみたい。それを通して、圧倒されるか安心するのか、他の感情を持つのかは、今のところは不明である。
 
2つ目は、進出している日本企業の方に、できるだけ多くの機会をいただいて、たくさんの方に、インタヴューしてみたい。中国の現場は、どのようになっているのか。日本と比べて、どうなのか。権限は、どのくらい与えられているのか。現地の労働者との関係は、どのようになっているのか。現地採用の幹部社員の待遇は、どのようになっているのか。他にも、聞いてみたいことは多くあるが、生産現場の最前線にいる方々に、直接お話しを聞き、これからの日本の生産現場の在り方について考えてみたい。日本で学んできた見方とは、違う見方がされていることを期待したい。
 
3つ目は、同じ班になった方々に、いろいろ聞いてみたい。どうして、この現場に興味を持つようになったのか。これからの日本の方向性とか。
 
以上、取り組みたい課題について、書いてきた。とにかく、この機会を生かして、本で得た知識を、いろいろ検証してみたい。その中で、日本のこれからの在り方について、経済・政治・社会面すべてにおいて、考えが深まればと考えている。

Robert Kennedy,1966

Each time a man stands up for an ideal, or acts to improve the lot of others, or strike out against injustice, he sends forth a tiny ripple of hope, and crossing each other from a million different centres of energy and daring, those ripples build a current that can sweep down the mightiest walls of oppression and resistance.

頭を使う。2

○映画「TOKYO」
8月16日から

○動画「最後の授業」
面白い動画。人に何かを伝えるのは、かくあるべきと考えさせられる講義。

2008年7月27日日曜日

頭を使う。

○原爆を学ぶ
テレビ朝日、8月2日21時から「原爆」

原爆の経験を、どのように学ぶか?戦争の記憶を、どのように受け継ぐのか?どのように、分析するのか?加害と、被害を、どのように、統一的に理解するのか。統一できるのか。

戦争の経験を私たちは、どのように生かしているのか?この時期だから、考えよう。どのように生かせるのか?

○『日経新聞』2008年7月26日、文化欄「戦後史資料邪魔者扱い」
歴史研究、歴史教育、そして歴史を学ぶということ。歴史とは何か?

歴史が社会との関わりを失いつつある、失った(?)。中村政則先生は、「歴史学は『社会の無用の長物』になりかねない」と言っている(『日本歴史学協会年報』2008年、p.6)

○歴史研究の現場
一橋大学では、有名な歴史学者が、どんどんと、退官(定年63歳)していきます。その後は、どうなるのでしょうか?このままポストが削られて、歴史は縮小になるのでしょうか。リベラル歴史研究の総本山である一橋で、このような事態が進むのは、相当大きな問題だと僕には、思われます。

早く、お金持ちになって、一橋に寄付したいです。そして、「芋月俊博記念グローバルヒストリー講座教授」と、「芋月俊博記念日本経済史講座教授」を作ります。

自分の頭で考える。書くのが良い。

○「国民国家論」を考えていたのですが・・・
西川長夫先生とかの文章は難しいと思う。打倒、歴史学研究会編『戦後歴史学再考』

○そんなわけで、映画「アミスタッド」を見る(苦笑)。
内容については、ネットを参照。国際関係史、グローバルヒストリー、国民国家論とかを勉強している人は必須の映画。だから、見たんです!!!(笑)

黒人奴隷の話。重い映画である。監督は、スピルバーグ。

内容とは離れるが、奴隷とは何かについて考えさせられた。黒人奴隷は、アフリカから、連れていかれた。アフリカの国内における、奴隷を送る側と、奴隷になる側。この断絶。

奴隷を使う側と、奴隷。白人と、黒人。これらの断絶。

白の上層と、下層。その下層と、黒人奴隷との対立。

ドラマ「The West Wing」は、アメリカの大統領および、その周りの上級スタッフの話。アメリカ史、および、アメリカ外交史、国際関係史を真面目に勉強しているかどうかの試金石。

アメリカの政治問題が、いくつも、取り上げられていた。モチーフは、クリントン政権。だろう?

黒人奴隷に対する、賠償金問題が、大きな政治問題になっていた。また、他にも、人種における政治的な問題が、あった。

アメリカにおける大きな問題。だけども、日本人には分かりにくい問題。こうした問題を、スピルバーグというユダヤ人が取る。

○憲法
こうした、難しい問題に直面した時、考えてしまいます。現実は、どうだとか、こうだと、理想は、こうだととか、こうなければいけないとか。

もっと、シンプルに考えよう。憲法に書いていることを、まずは、理解しなければいけないと、痛感。最近、よく考える。

注意すべきなのは、現実はどうだとかという、意味のない議論。そんな人には、まず、一言。「憲法読め!」

憲法は、飾りものではない。使うんだ。だと、僕は思うんですが、現実はどうなんですかね?

○ついでに、映画「蛇イチゴ」。
つみきみほさんに恋をする。。。(笑)高校時代の憧れの先輩に、そっくり。。。(笑)

たぶん、見ていて、人によって、意見は違うと思うけど、暗い映画だと思った。失われた10年15年の日本の中で、作られた映画だと思った。監督と、プロデューサーは有名。

時間が無くなったので、映画の論評は省略。僕は、本の内容は、すぐに忘れるが、映画の映像は、頭に、鮮明に焼きつくのだ。そんなわけで、これを見た人は、議論しましょ!!!

お父さん、お母さん、娘、息子。娘の結婚相手?。おじいちゃん。みんな、いわゆる典型的な問題にかかっています。

暑さに、負けるな!!!

2008年7月25日金曜日

研究予定の予定

○大学で勉強してきた事、卒論の問題意識

 経済大国に至る大きな転機を高度経済成長期ととらえ、高度経済成長期は、日本をどのように変化させたのかという大きな問題意識を持って取り組みました。その中で、国内産業の競争力が弱い段階において、貿易などの開国・自由化を求められた日本が、その事態に、どのように対応していこうとしたのか。その時の通産省や、政治家、マスコミ、社会などによる政策形成過程に注目しました。日本の経済発展に注目してきました。
 
このように経済発展について考えている時に、その経済発展というのは、誰の発展なのかと考えました。今日においても、景気の回復とともに、大企業の好業績がある一方で、市民や中小企業は、その実感を持ちにくいと言われています。こうした違いは、どうして起きるのか。また、ホームレスなどの方を見た時に、こうした思いは強く持つようになります。どうして、全体では発展しているのにも関わらず、それを享受することができないのだろうか。
 
経済発展を見ることと、同時に、そうした発展を受けられない層を見ていくことの重要性を痛感するようになりました。そして、その様子を、少しでも、理解できるようになるために、現場に行くことを決めました。

○課外活動
 
6月以降、毎週水曜日、横浜市の寿町でボランティアをしています。寿町は日本三大寄せ場の一つです。ドヤと呼ばれる簡易宿泊所が立ち並び、ホームレスの人々が多くいる地域です。本やテレビなどから、こうした地域の情報に接してはいたのですが、直接、行くことが重要だと考え、ボランティアを始めることにしました。高齢者が多数いること、ゴミが堆積しているため臭いがすること、怒りやすい人が多いことなど、直接行って始めて知ることができることがありました。

ここにいる人たちが、どうして、ここにいるのかどうかも、考えていかなければいけない問題だと思いました。そこにいることになったこと自体が、日本社会全体の問題を示しているように、私には思われます。

○修士課程での研究予定

こうしたことを受けて、修士課程では、労働、社会保障、貧困、格差の問題を考えてみたいと思います。まずは、経済発展の過程で、人々の生活は、どのように変化したのか。豊かになったのか。そして、貧困に陥る、労働や社会保障の背景などの構造分析を行いたい。今日の格差の問題を歴史分析で、より明確にとらえ、今日の問題をより明確にすることが大きな問題である。そして、その問題を経済学のツールで解決策を考えていくために、歴史分析と経済学を両方とも学べる「現代経済」コースを選択することにしました。

経済発展には、チャレンジ精神を持った人々の存在が不可欠である。チャレンジをして失敗した結果が、貧困だと、チャレンジする意欲を持つ人は減少するであろう。これからの日本経済には、たくさんのチャレンジが必要であり、チャレンジできる環境を整えるという観点からも、上記のような研究は必要であろう。