2009年2月11日水曜日

1960年前半の貿易自由化と、日本経済

□はしがき

目次
はしがき
□目次
第1章:問題意識
 1.「国家」に関して
 2.高度経済成長
 3.研究史の概観

第2章:GATT加入まで
 1.占領後の課題
 2.GATT加入までの背景
 3.GATT加入

第3章:貿易為替自由化へ
 1.「もはや戦後ではない」後の課題
 2.イギリスとの条約改正
 3.自由化へ
 4.貿易為替自由化

第4章:結論


第1章:問題意識
 1.「国家」に関して

 「冷戦」の崩壊以後、自由主義経済が世界中を覆うようになった。自由主義経済下においては、世界中をモノ・ヒト・カネ・ネタが国境を越えて、瞬時に行きかい、「光」と「影」の両面において、様々な変化を引き起こしつつある。この変化の中で、日本の政治・経済・社会も既存の枠組みでは対応できず、「改革」が求められている。具体的に、中曽根内閣による改革から、橋本6大改革、そして小泉構造改革へと、日本は、自由主義的な枠組みに適応できるように、「改革」が進められてきた。結果、日本は政治・経済・社会の全ての面において、大きく変容しつつある。
この一連の改革は、もちろん、国内から求められた内発的な側面があったことは事実であろう。しかし、海外からの「圧力」によって、国内改革が進められた側面もあるであろう。カネ・モノ・ヒト・ネタの国境を越えた大きな流れは、これまでの「国家」の役割を後退させるように働いているように思われる。日本においては、「小さな国家」が大きく唱えられた。
 今日では、その構造改革の結果、不利益を被っていると考えられる人たちが日本の中においても、そして、世界においても、相当数いることが考えられる。そして、その内には、既存の「国家」の役割が健在であれば、「救済」されていた人たちもいるであろう。また、世界的な大きな変化に対しても、「国家」は、それに対応して、「救済」を図る必要があることも当然である。
「グローバリゼーション」とは何かは、まだ不明であるが、少なくとも、巨大な資本とかが、国境を越えて、国境をぶっ壊して、世界を均質な市場にして、そこで利益を生み出そうとする側面があることは考えられる。そこでは、エコノミーの論理が優先し、福祉などの面が失われ、多くの人々が、「国家」による「救済」も受けることができなくなり、苦しい境遇に貶められるということは十分に考えられる。「国家」による「救済」を受けることができない中での「貧困」などの「構造的な暴力」は、もちろん単線的に結びつくわけではないであろうが、「テロ」などを生み出す土壌になっていることは十分に考えられる。そして、低くなった国境を越えて、「テロ」が世界中に広がり、「見えない」脅威が私たち一人一人に圧し掛かってきている。
もちろんであるが、「グローバリゼーション」は「影」の面ばかりではなくて、「光」の面もあり、私たちは、そこから大きな利益を得ている。世界中がインターネットで結ばれることにより、私たちは、世界中の「知」「情報」などに、容易にアクセスできるようになった。また、これまでよりも「自由」に他国に留学や観光などで、行くことができるようになったということも指摘できるであろう。結果、様々なレベルでの「交流」が行われるようになり、他国のことに対しても、より強くシンパシーを持つことができるように変化しつつある。
このような中で、「近代主権国家」を基礎とする近代国民国家体系が変容しつつあると考えることは、自然なことなのではないか。具体的には、ヨーロッパにおけるEU統合の「拡大」と「深化」は、私たちに、新しい国際秩序の可能性を感じさせる。少なくとも、自国の最適化を図ることを追求する「近代主権国家」は、「グローバリゼーション」によって、変化を余儀なくされていることは明らかであろう。
私たちは、インターネットなどによって、他国を知り、他国のことに関して、無関心ではいられなくなった。つまり、他国で苦しんでいる人々を無視することはできなくなり、彼ら・彼女らに対して何かをしなければという感情を沸き起こさせるように、私たち自身の認識が変化しつつある。また、他国にまで広がる「テロ」も、その原因の一部は、その当事国の「破綻」であり、それを、他国が、利他的な動機(その当事国の市民に何かしなければいけないという感情とかなど)にしても、利己的な動機(「テロ」が自国に及ぶのを防ぐなど)にしても、無視することはできないし、してはいけない。「国境を越える医師団」などの活動が、このような変化の先進的な取り組みとして捉えることができるかもしれない。
ただ、ここでは、「国家」の役割が小さくなり、「国家」の役割が「超国家的」な組織や、「国家」よりも「ローカル」な組織に移るということを指摘したいわけではない。もちろん、これまで「国家」が独占してきた役割を他のアクターに移すことは重要であると考える、そのことについて考えることも重要であろう。しかし、ここでは、既存の「国家」が、「グローバリゼーション」によって、大きく動揺しつつある中での「国家」の役割について検討していきたい。私は、「国家」の役割は、依然として重要であると考えている。
それは、グローバリゼーションという 巨大な流れに対して、抵抗できる、今考えられる主体は(もちろん国家だけではないが)、その有効性実効性も考えると、「国家」しかないのではないか。(「超国家的」組織や「ローカル」組織に対しても、大きな期待を寄せてはいるが。)
 もちろん、単なる、自国内の自己最適を諮るだけではダメだということは明らかではあるが、ただし、上でも確認したが、国家に何かしらの役割があるということも明らかであろう。グローバリゼーションの中で、国家は如何にして、あるべきなのか。それを、知るためには、それが、どのような役割を果たしてきたのかについて見ていくことが必要である。ここに、歴史的に物事を見ていくことの必要性があるのであろう。
 
 2.高度経済成長[1]

 明治期において、日本は「後進国」として国際社会に入っていた。しかし、その後の急速なる「近代化」の結果、戦前においても、「先進国」の仲間入りをするまでにいたった。どうして、日本は「近代化」することに成功したのだろうか?特に、ここでは、どうして、経済的な発展を遂げることができたのだろうか?
1つには、日本において、「近代的」な技術を受け入れるだけの基盤が存在していたということが指摘できるであろう。つまり、明治以前において、商品生産がそれなりに発達していた。結果、「近代的」な技術を受け入れ、それを発展させることができるだけの余地があった。2つ目は、日本がヨーロッパ工業経済の衝撃を「政治革命」に転化させることによって、植民地化の危機を免れることができたという点が指摘できるであろう[2]。薩摩や長州は、いち早く西欧艦隊との戦闘を経験し、西欧軍事力の強大さと、その背景にある国富と工業化の関係に気がついた。そして、その後、幕府を打倒し、西欧型近代国家建設が進められていくことになる。明治新政府は、その後、「近代化」を急速に推し進めていくが、植民地化への危機感を忘れることはなかった。というのは、彼らは工業化に関して、全面的に西洋人の技術援助が必要であるということは確信していたが、同時に、西洋人の直接投資による工業化は植民地化の危険性があるということも認識していた。
 簡単化して言うと、在来の産業そして、「近代化」の受容における政府の適切な政策というのが、戦前の日本の経済発展の初期に大きな貢献を果たした 。
 その後、日清戦争・日露戦争、第1次世界大戦などと「戦前」において日本は発展を遂げていった。そして、日本は「戦時統制」の元で、政治・経済・社会面における変革を経て、敗戦を迎えることになった。そして、その後、GHQによる「戦後改革」が次々となされていくことになり、「1950年代」の様々な政治的・社会的・経済的な変化を経て、「高度経済成長」にいたることになる。
 原朗[3]は「農地改革を経て、高度成長による工業部門の急拡大の結果、明治以降もゆるやかに進行しなかった農業人口の分解が一挙に展開することになったのである。さらに長期的な観点からみれば、弥生時代に形成されてから連綿として続き、農地改革によってもなお解体されなかった農業共同体が、高度成長期の間に大きく崩れ始め、解体への道をたどることになったのである。その意味では、高度成長期における経済構造の変化は、農地改革・地租改革・太閤検地などを飛び越えて、はるか2千年前の弥生時代における変化に匹敵するといってもよいと思われる」と述べている 。農村を解体させるほどの都市における経済の変化が高度経済成長期に起きた。そして、それと同時に、農村でも、経済の変化が起きていったのであろう。高度経済成長期は、その前の時期とは、一線を画する変化が起きたというのは、感覚的に私は了解できる。でも、実際、高度経済成長期において、どのような変化が起きたのだろうか。
 この卒論では、1960年代の高度成長の構造変化について、その「連続」及び「断絶」ということを意識しながら、「高度経済成長」について考えていきたい。そして、「高度経済成長」について調べる中で、今日につながる政治・経済・社会の構造についても考えてみたい。このことを通して、より深い現状分析につなげられるように、考えてみたい。
 そこで、この卒論では、日本の経済自由化(貿易・為替の自由化)への過程において、どのような国内対立、そして政策が成され、その結果はどうであったのかについて見ていきたい。
 これは、最近でも、2007年の5月に改正会社法が施行されるにあたって、その前後においては、大きな外資恐怖論が、日本社会で起きた 。三角合併の解禁によって、外資による日本買いが増えると考えたからであろう。
 同じようなことは、戦後日本の経済が成長しつつある中の50年代の末から、60年代にも起きた。この卒論では、60年前後において、日本と国際社会が接触するときについて、主に、それを受けての経済政策や、その政治過程について見ていき、日本が如何にして、国際社会・グローバリゼーションに適応していけばいいのかについて考えていきたい。
 「中進国」として、占領後、日本は歩んできた。その日本が、どのような発展を遂げて、「先進国」と経済的に平等に競争しようとするまでにいたったのか。このことは、現代日本が経済大国として世界において大きなプレゼンス持つにいたる大きな変化がそこにあったのではないか。日本の経済大国へのステップとして、この国際化への過程を見ていきたい。

 3.研究史の概観

 ここでは、大まかに高度経済成長期の国際化への過程の研究を概観していきたい。経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したのかについて検証しているものが多い。そのため、「冷戦」という国際秩序の関しては、言及が少ないように思われる。「国際化」という過程においては、明らかに、国際秩序との係わりが、重要な問題となってくることを考えると、内と外の両面を見ていくことの必要性は当然である。また、こうした経済史研究においては、その経済を支えた社会との関連に関しては、述べられることは少ない。
 国際関係史、外交史は、国際関係と政府に分析の焦点が当てられている。もちろん戦後における外交の場合、経済という側面は大きいので、経済についても言及されている。ただ、その時、国内の社会的な側面やミクロな側面に対する関心は薄い。
「高度成長」の時代、国際秩序は、「冷戦」という体制に、強く規定されていた。そして、その影響は、「国内冷戦」という形で、国内にも波及していることがあった。特に、国際化の過程は、国際関係の中で行われているので、「冷戦」に関して、強く意識しながら、考えていく必要があろう。そして、このことに加えて、社会史的な側面についても考えていきたい。この点に関して、浅井は次のように言っている。
「経済史においては、あまり論じられることはないが、大衆運動、市民運動、さらには一般大衆の世論は、重要な局面において、経済を方向づけたと考えられる。工業化は膨大な労働者を生み出し、春闘に代表されるような広範な労働運動をもたらしたが、他方で、都市化は、労働者意識とは異なる、新たな市民意識の形成を促した。[4]
 国際化というのは、外交、国際関係、そして経済政策という大きな問題であると同時に、それによって、影響を受ける多くの人々にとっても大きな問題であるということである。そして、この両者は、独立して存在しているのではなくて、お互いに影響を与えながら、方向付けられていったことが考えられる。選挙を通して、圧力団体を通して、市民運動を通して、多くの様々なアクターの存在が想起される。こうした相互関係を意識しながら、考えていくことが必要なのではないか。


第2章:GATT加入まで
 1.占領後の課題

 1949年中華人民共和国の設立、そして、朝鮮戦争。これらを通して、日本の東アジアにおいての、冷戦政策上の、重要性は増すことになった。アメリカは、経済的な失敗が、日本の共産化につながると考えたために、日本の経済を支えることになる[5]
講和への歩みが明らかになった昭和25年末になっても、日本経済はなお年々数億ドルにのぼるアメリカの対日援助によって、経済循環を支えられている状況にあった。そのため、日本の経済的な自立が喫緊の課題として取り組まれていくことになったのである。
  独立後、占領下に設定された統制の大枠は外され、生産と消費の経済活動は基本的に自由となった。日本政府は、日米協力という基本条件を踏まえて、独立後の日本経済がいかなる途をたどって自立・発展しうるかに大きな関心と期待を寄せ、様々な予測を立てた。そして、それを実現するために、戦時・戦後の技術的立ち遅れを回復するために、産業の合理化・資本の蓄積が進められていくことになった。
  1949年4月に一米ドル=360円という単一為替相場が決定され、ようやく正常な外国為替取引が設定され、正常な外国為替取引が復活すべき基礎が打ち立てられた[6]。1949年2月最高司令官覚書として為替管理について強力な指示が提出された。これは、「外国為替と輸出入貿易に関して、総合的に調整された管理制度を確立」すべきことを命じ、また外国為替管理委員会の創設を奨励するものであった。これを受けて、49年3月外国為替管理委員会が成立され、新しい為替管理法案の立案に乗り出すことになり、12月に「外国為替および外国貿易管理法」(=外為法)が制定されることになった[7]
  「外為法」のもとでは、輸出は原則として自由となり、商社が輸出で獲得した外貨は10日以内に外国為替銀行に売り渡さなければならず、さらに外国為替銀行は、これを政府に売り渡さなければいけなかった。外国為替を政府に集中するこの制度によって、限られた外貨をできるかぎり有効に用いるための制度が設計された[8]
   結果、産業保護・育成のための、きわめて強力な政策が採用されることになった[9]。貿易の自由化は、こうした政府の為替管理・制限を撤廃しようとするものであった。
   こうした日本の保護主義は、外国からの輸入を困難にした。そのため、日本企業は、外国技術の導入が比較的に容易になっていたと考えられる。結果、導入技術をテコに、重化学工業化が連鎖的に進んでいくことになったのである。
  重化学工業化によって、年間の民間投資や、民間資本ストックが大幅に増加した。そ
して、そこには、「投資が投資を呼ぶ」メカニズムが存在していた。
  高度成長期の重化学工業化は、それを推進する3つの主要な柱=産業連関の3系列を有していた。第1の系列は、鉄鋼・金属・窯業土石―建設・土木―不動産の連関である[10]。第2の系列は、石油―化学・電力の連関である[11]。第3の系列は、銑鉄・粗鋼―鉄鋼一次製品―、一般機会・電気機械・輸送機械の連関である[12]
  このように高度成長期の重化学工業化は、この3系列への主要な産業連関の集中、系列内内部循環の確立として進行し、3系列内部の相乗作用[13]が累積的に進行した。そして、国内の最終需要と輸出の拡大が、この過程を一層加速させた。高度成長期を通じて、生産の増大、雇用の拡大、新設備の導入が、絶えることなく進んだのである。
  こうして重化学工業化が「投資が投資を呼ぶ」というメカニズムで進んでいったのである。ただ、注意すべきことは、重化学工業が大規模な技術革新やエネルギー革命を伴っていたということである。そして、その大規模な技術革新の大きな特徴は、外国技術の導入[14]によって、初めて可能になったということである。
  昭和25年は、「日本の家庭電化紀元元年[15]」と言われている。この年に、家電需要が200億円まで、伸びたことに由来する。こうした需要の伸びの背景には、大きな二つの変化があった。一つ目は、消費経済に対するものの考え方の大転換があった。
 
「戦争前の消費に対するものの考え方は、田舎の地主の息子は学校に卵焼の弁当を持ってきてよろしい。しかし小作人の子供は梅干しの弁当で十分。この禁を破り、小作人が卵焼をつけ、もしも地主よりいいおかずだったりしたら、けしからん、という時代です。それが日本のずっと長い間の歴史だった。ところが、戦争で地主だの小作だのといっておれるかということになった。
 これが戦後になると、金があればなにを買ってもいい、つまり、消費生活の階級意識は全くなくなった。消費生活の平等性が浸透してきた。これは日本の消費経済の基本的な変化です。・・・私はそういう消費の社会的な観念がまるっきり変わってきたことが、消費財産業の伸長を見る場合、欠かせない視点だと思う。[16]

 戦時に於ける、「平等化」圧力か、戦前の消費観念を変化させ、戦後の消費観念を形成していったことが分かる。
 二つ目の変化としては、女性の家庭における地位の変化が考えられる。特に、都市部では、家庭における分業化が進んでいった。そして、その過程において、家事労働を容易にさせる家電が進んでいった。背景として、女性の家庭における地位の「上昇」が考えられる。
  「・・・女性家庭内の地位を回復し、家内労働はスムーズに電化製品に置き換わっていった。[17]

  「日本の家電の商売がどの方向へ持っていくかを研究するためアメリカに・・・調査に行った。・・・アメリカの全私有財産は、6割以上は婦人名義になっている。・・・そんなわけで、女性の市場に対する影響力はそうとう強いと踏んだ。[18]
  
 こうしたアメリカでの事情は、日本の先を行っていた。そして、そのことに、注目して、消費財は提供されていることになった。また、この時代に、こうした女性の家庭における消費財購入における決定権を助けるための雑誌なども、この時代刊行されることになった。例えば、一九四八年創刊の『暮らしの手帖』暮らしの手帖社である。雑誌内で、商品テストを行ったりした。しかし、これは消費者のためではなくて、生産者が、よりよいもの作りができるようにするためのものだとしている。こうした雑誌の存在が、消費者と、生産者をつなぐ重要な働きをして、「生活の近代化」[19]に大きな貢献をしたと見ることができるのではないか。
簡単に、家電製品などの民生エレクトロニクスが、日本では発展した理由を見ていくと、日本では、軍需産業を断念し、民生産業に特化したために、その限られた資源を、民生技術の発展に投下することができた。そのことが発展につながったと考えることができるだろう。また、その背景には、日本の戦後における反戦平和運動の存在こそが、軍需産業の育成を妨げ、また、企業が、軍需に頼ることを阻止したと見ることができるのではないか。

 2. GATT[20]加入までの背景
  
最初に、GATTの誕生を見ていこう。これは、1930年代の国際経済に生じた経済紛争を歴史の教訓をもとに、作られることになった。一九二九年からの世界大恐慌は、ブロック経済と、そして、対外膨張主義を生み出した。そして、結果として、第2次世界大戦につながったと考えることができるだろう。こうしたことを踏まえ、米英を中心に、経済的排他主義・国際貿易の国家介入を規制する枠組みの模索がなされ、GATT創設へとつながった。
次に、ガットの貿易自由化のための諸原則を簡単に見ていきたい。原則として、代表的なものとして、最恵国待遇の無差別適用(第1部1条)、内国民待遇原則(第2部3条)、数量制限の原則禁止(第2部11条)と、その無差別適用(同13条)がる。そして、この体制の前提としての条件[21]は、自由貿易はあらゆる国の経済を拡大する。貿易が行われるのは自由な需給関係によって価格が決定される民間市場においてである。政府の市場への介入は、市場に「歪み」をもたらすものであり、それは国際価格のシグナルに合わせて国内産業調整を行う時期をもっぱら引き延ばす目的を持つにすぎない。すべての国が参加する多国間交渉によって作られた貿易協定の方が、「2国間協定」や特定分野についての「個別協定」などよりもはるかに望ましい。ただし、こうした前提が有効に機能するためには、国際市場環境に独占や寡占などの競争阻害要因が存在しないこと、規制などによって、市場価格の伸縮性が妨げられず、また、生産要素が国内市場で自由に移動しうることなどの条件が必要である。これらの競争阻害要因が存在しないことが必要であるが、実際の市場には数々の競争疎害要因が存在する。そのため、この競争阻害要因を是正するために、国家は必要に応じて市場に介入することになるが認められている。ただし、何が最適介入の条件・手段かについての厳密な合意があるわけではなく、各国政府の裁量に委ねられている。このため、経済の政治化を加速させる一因となっている
GATTの特徴は、例外規定に表れている。条件付きの農業の輸出入制限(第2部11条2項)、輸出補助金の容認(第2部16条)、国際収支の悪化を避けるための条件付き数量制限(第2部12条、18条)、セーフガード(第2部19条)などがある。ガットは、ガット・プラグマティズムという言葉が示すように、自由貿易の理想を追求するのではなく、貿易の自由化を漸進的な実現を目指す組織として位置づけることができるだろう。
 次に、GATT加盟に至る背景を見ていこう。独立後、日本の「自主外交」が多くみられるようになった。このことは、アメリカに、日本が、「東側陣営」に行くのではないかという危機感を与えることになる。
 1956年11月日ソ国交回復、日中貿易復活への要求などの「自主外交」が展開されていった。日中貿易復活への要求の背景としては、民間からの貿易の再開を求める声が大きかった。輸入超の日本にとって、戦前に大きな市場であった中国との貿易の再開は、非常に重要な問題であった。しかし、ココムの結果、日中貿易は戦前のようにはすることはできなかった。こうした事態を受けて、アメリカは日本の輸出市場確保として、東アジア諸国との貿易を解放するとともに、イギリスなどが反対する中、説得し、GATT加盟させることによって、国際市場にアクセスすることを可能にした。
 イギリス国内では、戦前のダンピングの記憶が濃いため、日本のGATT加盟に反対する動きは強かった。しかし、冷戦の論理から、日本の共産化を防ぐことは至上命題ということもあった。結果、GATTの加盟は認めるが、GATT35条を日本に適用することによって、国際的な要請と、国内の要請を解決しようとした。GATT35条は、当初だけ、最恵国待遇を与えないというものであった。イギリス他、14ヶ国が日本に適応することになる。
   
 3.GATT加入
 GATT加入の結果を簡単に見ていこう。まず、政治的には、国際的地位の向上が挙げられるだろう。投票権の獲得、国際交渉の場に参加できることにより情報の入手が可能になるなどがあった。
 経済的には、アメリカに対する輸出が急増することになった。アメリカとの貿易摩擦が始まることになる。
 日本のGATT加盟に対して、イギリスは、国内における繊維業界からの圧力から、GATT35条の適用で、問題を解決した。イギリス国内においては、戦前のダンピングという記憶が強く、そのことが、日本との間での、自由貿易に反対する大きな背景としてあった。
そのために、実質的に、GATT関係に入ることを拒否することになっているので、イギリスなどのGATT35条適応国との間での通商関係は、それ以前とあまり変化はなかった。


第3章
 1.「もはや戦後ではない」後の課題

 戦後日本は、加工貿易型の経済構造を取るようになる[22]。輸出額について見た時に、1953年時点においては13億ドルであったのが、56年には25億ドル、59年には59億ドルと増えていった[23]。53年の段階と比べて、4.5倍もの増加が見られた。しかし、59年における他国と比較した場合に、まだ、この段階では、差が大きいのは明らかである。アメリカは日本の約5倍、イギリスは約3倍、西ドイツは約3倍であった。
 次に、日本の貿易構造について見ていきたい。1950年の段階においては、総輸出額に占める重化学品の割合は30.4%、その他は69.6%であった 。そして、1959年には、重化学品の割合は39.8%、その他は60.2%であった。確かに、貿易構造における高度化は進んでいるのは認められるのが、ただし、その割合は十分ではないということができそうである。通商白書も、輸出市場の不安定性は日本の輸出商品構成にもよるところが大きいとの見解を示している。
「非工業国に対する輸出は,他の先進工業国が機械や化学品に大きなウェイトをかけているのに対し,繊維品など消費財の比重が圧倒的に高く,プラントは依然伸び悩みの状況である。さらに,これらの国の需要は次策に重化学品に移行していっているので,このことは将来の日本の貿易にとって大きな問題となるものと思われる.先進工業国に対する輸出は近年鉄鋼とか船舶など投資財がかなり伸びているが,これは相手国側の供給力不足によるという要素を含んでいる。またこれらの国に対する輸出の大宗である消費財については輸入制限の動きがあり,嗜好の変動も激しいので,たゆまざる輸出努力が必要であろう。[24]
貿易体制の不備に関しても、通商白書では指摘している。
「戦前においては,貿易担当者である商社,為替銀行,海運業者が諸先進国に,伍して,きわめて活発な行動をつづけていた。戦後、これらは,いずれも力を失ったが,とくに商社については,海外支店網のそう失とインフレ過程における資本力の低下によって著しく弱体となった。近年貿易の回復にともなって次膨大な借入金によって業務を行い,本来の機能である海外活動はなお不十分である。
 またきわめて多数の商社が乱立して,輸出入ともに過当の競争をくり返しているが,そのために不利な取引を余儀なくされるはかりでなく,海外市場の維持にも悪影響を与えている。
 これはひとり商社のみではなく,製造業者の段階においても,同様な傾向がみられるが,これらは貿易の順調な発展を阻む大きな要因といわなければならない。[25]
 以上、見てきたように、確かに、高度成長が進むにつれ、日本の輸出額は増え、また、貿易構造の高度は進んでいったが、この段階での貿易自由化は、なかなか厳しいものがあったのではないかと、推察される[26]
 
2.イギリスとの条約改正

イギリスとのGATT35条の改正に向けての動きを見ていこう。レバノン危機における日本の役割が、日本の国際政治におけるプレゼンスの上昇につながったということは考えられる。
 また、GATT35条に代わる保護措置を認めることを了承したことも、イギリス国内における反対を和らげるような役割を果たした。これは、輸出の自主規制を前提にした二国間条約であった。そして、1963年4月の日英通商航海条約締結に至るのである。  

 3.自由化へ

では、日本がこのような経済状況の中で、どうして、貿易為替の自由化が求められていったのか。その背景[27]について、見ていきたい。
  まず1つ目の背景としては、戦後圧倒的な経済力を有し、その経済力で、西側世界を支えていたアメリカが、自由化要求を始めたということがあった。それは、西欧や日本の経済が発展するにつれて、アメリカの経済的地位は低下し、これまでのように経済援助や海外軍事支出を行うことができなくなったということがあった。そして、その「ドル散布」を貿易黒字でカバーしきれなくなり、1958年頃から慢性的なドル流出に悩まされるようになった。しかも、59年には日本の対米輸出が大幅に増加して、対米貿易収支が戦後初めて輸出超過を記録したということがあった。
  2つ目の背景としては、西欧諸国が1958年にEECを結成するとともに、自国通貨とド
ルの交換性を回復し、為替取引の正常化に踏み出し、対米差別輸入制限を大幅に撤廃す
るということがあった。このことも日本の貿易・為替自由化を促す一因であった。
しかし、貿易自由化の動きは、国外からだけではなかった。日本の国内においても、いち早く時代の変化を見定めて、それに素早く適応していこうという考えもあった。『戦後産業史への証言』[28]における今井[29]の話によると、1958年10月あたりの話として「・・・国内には割り当てによる弊害問題があるし、外には貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本精神に基づく動きが出来てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろう」と考えていた人もいたそうだ。
  そして、西ドイツが8条国への移行を宣言し、イギリスも宣言し、そしてフランスも間もなく行われるようになるだろう。アメリカ、カナダはすでに8条国になっている。つまり、欧州の国々では、次第に為替管理、輸入宣言を撤廃していく中で、必ずや日本にも、その波が押し寄せてくることは避けられない状況であるとの認識がもたれるようになった。そして、今井は当時、通産大臣だった池田勇人にレクチャーをして、賛同を得たらしい。
  このような国内における認識にもとで、原綿・原毛[30]を中心とする輸入自由化促進が発表[31]され、そして、1960年1月には政府は貿易自由化促進閣僚会議を設けることになる。つづいて、3月に通産省が、貿易・為替の自由化の基本方針を決定し、6月に貿易為替自由化計画大綱が発表されることになった。
  以上のように、国外からの圧力があったようであるが、それ以前に、日本の国内において、その国外における変化に対して、敏感に反応して対策を講じようとした人たちがいた。そして、結果として政府の政策となり、60年6月の貿易為替自由化計画大綱という形に至った。
ここでは、貿易自由化に対する「積極派」「消極派」の考えについて見ていきたい。ここでは、『戦後産業史への証言』にある佐橋滋および今井善衛の「証言」を使って、整理していきたい。ちなみに、この両者は、昭和30年代において、貿易自由化に対して消極または積極の派閥の中心的な存在であった。
まずは、「消極派」に属していた佐橋の考えに見ていこう。まずは、貿易自由化の考えについて見ていく。「私の考えは、基本的には貿易自由化は当然進めるべきだ、しかし、ヤミクモに走られてはかなわない。当時、戦後10年で一応経済成長はなし遂げられたけれども、日本のそれぞれの産業、業種の基盤は世界的に見て強い、堅実だという認識は持っていなかった。日本という国は貿易のサヤで生きていく貿易立国です。いってみれば原料を輸入して製品にして輸出してそのサヤで生きていく以外にもう手のない国でしてね。産業が貿易の自由化によって壊滅的な打撃を受けたら、日本はもう立つ瀬がない。だから、貿易自由化に対抗するには、どうしても産業構造体質の改善をやらなければならないし、それがある程度メドのつくまで簡単に貿易の自由化をしてもらっては困る。私は準じに自由化をやっていく。期限をつけて何年後にはどうするというメドをつけて、その間に少し荒療治ではあっても、産業界は体質を強めるための努力をせよ。こういう段取りで貿易の自由化に対抗できるようにしたらどうか、という考え方」[32]だそうだ。
だから、そのため、池田通産大臣が進める自由化の動きに対して反対することになった。それは、軽工業の自由化と、重工業の自由化を一緒の次元で考えている点に問題があるということであった。例えば、自動車業界に関しては「輸入自由化すると、日本の自動車メーカーはつぶれてしまう」という認識を持っていた[33]。そして、「当時、日本経済発展の柱は、かつての繊維から重化学工業へ移ってきているし、その重化学工業がこれから伸びようとしているところを、性急な自由化でもみくちゃにされたのでは、日本経済の伸びはないという使命感」を持っていたそうである。[34]
自由化を推し進めようとした政治家池田の路線に関しては「とにかく政治家の考え方には、『なんとかなる方式』があるわけです。追い込めば日本の経済の底力でなんとか対応する。安全、安全とブレーキを踏んでいるよりは、オカイコぐるみから出して、風の中へ放り出したほうが早いと考えておられたようですね」と、厳しく評されている。[35]
  次に、貿易自由化「積極派」の今井の考えについて見ていきたい。まず、インタビュアーの次のような発言があった。「・・・担当されている局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。」そして、今井さんの発言は「それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、なるようにしかならないという見通しが、われわれは先に立ちますからね」とある[36]。これは、上で見た佐橋の批判する池田の考えに通呈するものがあるように思われる。
  自動車業界に関しても「業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組み立て工場を作るかもしれないと、外資の進出を非常に恐れていました。」とある。そして、その外資恐怖症の原因について次のように言っている。「当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、『そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もう飲まざるを得ない、妥協せざるを得ない』という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ずうっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考えです」[37]のようだ。
その考えの基盤には、日本の産業に対する次のような考えがあったそうだ。インタビュアーの発言として「貿易の自由化を一方的に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって。業界の引き締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる。繊維なんかはそんなことしなくてもよかったわけですが、他の産業についてはそういう考えはなかったですか。」とある。それに対して、今井は「それはありましたね。・・・その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自体も自信がなかったのでしょうね。それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任ではなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の法はやっぱりミクロの問題として、また自分たちの問題として真剣に考えています。あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような態度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどのように見ていたんだという気もしますね。」[38]とのことです。
このような見方の違いは、どのような所に起因するのだろうか。これについては、それぞれの価値観に起因しているというのが、現段階での考えである[39]
ただ、池田勇人も、政権についてからは、その中間の政策を進めていくことになる[40]。池田は、首相就任後の新政策への抱負を次のように語った。インタビュアーが「貿易為替の自由化から、今後国際収支を心配するむきがあるがどうか」との質問に対して、池田は「とりこし苦労する必要はない。24年、私が大蔵大臣になったとき、手持ち外貨はゼロであった。それがいま15億6000万ドルもある。外貨準備の手持ちは潤沢で心配ない。輸入原材料がふえて外貨が減っても、綿花・石油・羊毛の在庫が増えれば心配する必要はない。自由化して輸入が増えるようでは、なんにもならない。自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段である。このごろ輸入がふえているのは機械類である。これは将来の輸出の準備をしているのだから、心配はいらない」と、貿易自由化への不安は無いと答えた。また、インタビュアーは「貿易自由化で安い商品が外国から流れこむという心配について、首相の考えを聞きたい」と質問した。それに対して、池田首相は「外国から安い商品が流れこむまえにこれを防ぐ準備をしてから、自由化をする。日本の商品が外国商品とくらべて、どうしても安くならないものについては、関税などで対処する。ガットでも除外例が認められているのだから、これを適用してもらうようにすればよい」と、保護的措置を講じつつ、自由化を進めていくことが示された。
 以上のように、考えの上では、様々な、対立があったようだが、実際においては、その
中間のような政策が採られていったことが分かる。
1960年6月に、政府は「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定した[41]。原則輸入制限、例外的に自由から、輸入は原則的に自由へと変わっていくことになる。
この大綱はまず、「資源に乏しく人口の多いわが国経済が今後長期にわたって発展するためには、世界の経済交流の進展に即応しつつ、海外諸国との自由な交易を一層拡大してゆくことが不可欠の要因であると考えられるので、自由化を極力推進することは、世界経済の発展のための国際的要請たるのみならず、わが国経済自体にとって、きわめて重要な課題となっている」と述べ、自由化に前向きの姿勢を示した。そして、自由化の国内経済へのメリットとしては、「・・・貿易および為替の制限を積極的に緩和し、経済的合理性に即した企業の自主的な創意と工夫を一層重視することは、わが国経済に対して多くの好ましい効果を期待することができる。すなわち、自由化により、従来の管理統制に伴う非能率や不合理性は排除され、低廉な海外原材料等の自由な入手が一層容易となり、産業のコストは引き下げられ、企業は国際的水準における合理化努力を要請されるなど、自由化は経済資源の一層効率的な利用を可能ならしめ、経済の体質改善を促進するとともに、広く国民の生活内容の向上に寄与し、もってわが国全体の利益を増進するものである」と言っている。
 もちろん、メリットだけでなく、問題点があるということも指摘されている。「しかしながら、実際に自由化を促進するに当たっては、まず長年にわたり封鎖的な経済の下で形成された産業経済に及ぼす過渡的な影響に十分考慮を払う必要がある。またわが国経済は西欧諸国とは異なり、過剰就業とこれに伴う農林漁業における零細経営および広範な分野における中小企業の存在などの諸分野が包蔵し、また育成過程にある産業や企業の経営、技術上の弱点など多くの問題を有している上に、わが国を取り巻く国際環境についても、欧州共同市場のような長期的に安定した協力経済圏を有していないこと、およびわが国に対してなお差別的な輸入制限措置[42]が取られている例が多いことなどについて注意する必要がある」とある[43]
 そして、この大綱において、輸入自由化のタイムテーブルが明らかにされた。「本計画を推進することにより、昭和35年4月現在において40%であった自由化率を、3年後においてはおおむね80%、石油、石炭を自由化した場合にはおおむね90%に引き上げることを目途とする」とされた。
以上、貿易自由化に対する日本政府の姿勢について見てきた。積極的な姿勢を示し、そして、そのメリットを強調するも、その問題点も指摘されるなど、当時において、「積極派」
「消極派」で、対立していたことが推察される。


 4.貿易為替自由化
 
自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[44]。1960年4月において、40%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われたそうで、工業製品については、比較的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは自由化の直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に与えた影響は、それほど大きくはなかった。
 (表 1[45]

残存輸入制限品目表
自由化率
(%)
合計
工業品
農産物
1960年



41
61年



62
62年
466


73
63
197


89
64
136
69
67
93
65
136
69
67
93
66
120
54
66
93
67
120
54
66
93
68
122
54
68
93
69.10.1
118
50
68
93
70.2.14
109
45
64
93
4.1
98
39
59
94
9.1
90
35
55
94
71.1.1
80
31
49
94
6.30
60
20
40
94
10.1
40
12
28
95
72.4.1
33
9
24
95
73.4.19
32
8
24
95
通産省『通商白書(総論)』(1973年)p.117ほかより作成。残存輸入制限品目数は、75.3.16に29、75.12.24に27となった。


第4章:結論
戦後、日本は、「冷戦」に強く規定されながら、国際社会に復活していくことになる。しかし、戦後すぐにおいては、経済は弱く、輸入の超過が問題としてあった。そのために、中国との貿易再開が、日本国内では望まれたが、「冷戦」のため、無理であった代わりに、アメリカの市場、東アジアの市場、そして、GATTへの加盟が、アメリカの大きな支持のもと、進められていった。イギリスの国内からは、日本の経済進出に対して、反対であった。しかい、「冷戦」の倫理で、日本の経済的な安定は至上命題であった。その折衷として、GATT35条の適用となった。保護貿易が認められていた、50年代前半の日本では、外国からの技術の導入と、国内での技術開発の結果、大きな経済発展を遂げていくことになり、50年代後半になると、アメリカから、自由化を求められるまでにいたった。この発展の一つに家電の発展があるが、それは、戦後日本が、民生品に特化したことが、国際競争力を持つようになった背景としてあった。そして、そうさせた反戦平和運動があった。こうした民生品を評価するための雑誌も充実し、また、消費者の購買意識も、戦後大きく変化した。レバノン危機を経て、日本の国際社会でのプレゼンスは高まり、イギリスとの間でGATT35条の解消へ、大きく進んだ。50年代後半、国内では、貿易自由化への賛否両論の議論が戦わされたが、国際的な流れを見ると、経済的に大きくなった日本の自由化への道は避けられなかった。保護するべき産業を保護しながら、日本は急速に、貿易の自由化を進んでいくことになった。

□あとがき



□参考文献

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・エコノミスト編集部『高度成長期への証言』日本経済評論社、1999年。
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・同編『経済白書 昭和39年度版』大蔵省印刷局、1964年。
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・『毎日新聞』
・通産業省『通商白書 総論1964年』通商産業調査会、1964年。
・通商産業省『通商白書 総論1960年』通商産業調査会、1960年。
・土門拳『ドキュメント日本 1935年―1967』小学館、1995年。
・通商産業省編『商工政策史 10巻』商工政策史刊行会、1961年-85年。
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・日本放送協会放送世論調査所『図説戦後世論史 第2版』日本放送出版会、1982年。
・三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年。
・東京都写真美術館編『昭和の風景』新潮社、2007年。
・赤瀬川原平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波書店、2007年。
・内田公三『経団連と日本経済の50年』日本経済新聞社、1996年。
・マーク・フューステル編『日本の「自画像」』岩波書店、2004年。

辞書・辞典:
・舘龍一郎編集代表『金融辞典』東洋経済新報社、1994年。


本・論文 :
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・浅井良夫『戦後改革と民主主義』吉川弘文館、2001年。
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・荒川章二「日本型大衆社会の成立と文化の変容」『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
・アンドルー・ゴードン著、森谷文昭訳『日本の200年上・下』みすず書房、2006年。
・同編『歴史としての戦後日本上・下』みすず書房、2001年。
・五百旗頭真編『戦後日本外外交史』有斐閣、2006年。
・伊藤正直「高度成長の構造」渡辺治他編『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、2004年。
・伊藤昌哉『池田勇人とその時代』朝日新聞社、1985年。
・猪木武徳・安場保吉編『日本経済史8 高度成長』岩波書店、1989年。
・香西泰『高度成長の時代』日本評論社、1981年。
・同「高度成長への出発」中村隆英編『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』岩波書店、1989年。
・金子勝「『高度成長』と国民生活」『講座日本歴史12 現代2』東京大学出版会、1985年。
・神野直彦『地域再生の経済学』中央公論新社、2002年。
・菊池信輝『財界とは何か』平凡社、2005年。
・高度成長期を考える会編『高度成長と日本人』日本エディタースクール出版部、1985年。
・城山三郎『官僚たちの夏』新潮社、1980年。
・鈴木恒夫「戦後日本経済システムと『過当競争』」中村政則編『近現代日本の新視点』吉川弘文館、2000年。
・鈴木良隆『ビジネスの歴史』有斐閣、2004年。
・暉峻衆三『日本の農業150年』有斐閣、2003年。
・中岡哲郎『日本近代技術の形成』朝日出版社、2006年。
・同「技術革新」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
・豊下樽彦『集団的自衛権とは何か』岩波書店、2007年。
・中村政則『戦後史』岩波書店、2005年。
・同「1950年-1960年代の日本」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
・中村隆英・宮崎正康「1950年代の産業政策」中村・宮崎編『岸信介政権と高度成長』2003  年、東洋経済新報社。
・中村隆英「日本における産業政策の特色と評価」『週刊東洋経済』1974年6月18日臨時 増刊。
・中村秀一郎他『現代中小企業史』日本経済新聞社、1981年。
・西川俊作他編『日本経済の200年』日本評論社、1996年。
・「年報日本現代史」編集委員会『戦後体制の形成』現代資料出版、2008年。
・野林健他著『国際政治経済学・入門』有斐閣、1996年。
・橋本寿郎『戦後日本経済の成長構造』有斐閣、2001年。
・橋本寿郎他著『現代日本経済』有斐閣、1998年。
・原朗「戦後50年と日本経済」『年報日本現代史』第1号、1995年。
・日高六郎編『戦後日本を考える』筑摩書房、1986年。
・日高六郎『戦後思想を考える』岩波書店、1980年。
・南亮進『日本の経済発展 第3版』東洋経済新報社、2002年。
・宮崎勇『証言戦後日本経済』岩波書店、2005年。
・三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年。
・森武麿他著『現代日本経済史』有斐閣、1994年。
・同「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争第1巻』岩波書店、2005年。
・渡辺治編『高度成長と企業社会』吉川弘文館、2004年。
・同「戦後保守支配の構造」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
・山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年。
・山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一『総力戦と現代化』柏書房、1995年。
・吉川洋『高度成長』読売新聞社、1997年。
・吉見俊哉『親米と反米』岩波書店、2007年。
・米倉誠一郎『経営革命の構造』岩波書店、1999年。
[1] 「高度成長」の時代を描いた作品は多い
  映画:「Always 3丁目の夕日」「Always 続3丁目の夕日」「フラガール」「実録・連合赤軍」「パッチギ!」「パッチギ!LOVE&PEACE」・・・
  写真:東京都写真美術館では、2007年8月から10月において「高度成長期」の写真展が開催された。東京都写真美術館編『昭和の風景』新潮社、2007年。
     赤瀬川原平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波書店、2007年。
     土門拳『筑豊のこどもたち』築地書館、1977年。とか
  テレビ番組:NHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」とか
[2] 中岡『日本近代技術の形成』p.412。
[3] 原朗「戦後50年と日本経済」p.99。
[4]浅井良夫「現代資本主義と高度成長」歴史学研究会・日本史研究会『日本史講座』第10巻、東京大学出版会、2005年、p.214。
[5] 同様な政策は、ヨーロッパでは、マーシャルプランとして実行された。当時、ヨーロッパは、第二次世界大戦の結果、経済状況は大変悪かった。その上、東からのソ連の進出が進んでいたために、共産化の危険性は強かったと考えられる。
[6] 浅井「現代資本主義と高度成長」p.209によると、産業の競争力が弱かった1940年代末から50年代には、にほんは輸出により、国際収支を均衡させることは困難であり、アメリカの経済援助や軍事支出を(海外軍事調達)の補完を必要とした。日本は、エロア援助供与の条件としてアメリカが指示した「経済安定9原則」に基づいてドッジ・ラインが実施され、金ドル本位制に組み入れられた。「経済安定9原則」は、為替管理の強化を求めており、アメリカが、ドル固定レートの維持と引き換えに、日本に対して保護主義を容認したものと見ることができる、らしい。
[7] 『通商産業政策史 6』p.77。「限られた外貨を有効に活用して国民経済の健全な発展を図ることが当面の課題となった」
[8] 外貨予算制度、外貨割り当て制度
[9] 革新的技術導入に対して優先的に外貨を割り当て、他方、育成すべき新鋭重化学工業については、輸入への外貨割り当ての抑制を通して、それらの製品の輸入を事実上厳しく制限したりした。
[10] 高度成長は、産業関連施設整備を軸とする激烈な開発政策の展開(旧全総、新産都市、太平洋ベルト地帯、新全総、列島改造論)をともなうものであった。産業道路・産業港湾の建設、工業用水整備、臨海埋め立て工業用地の造成等が公共投資をベースに推進され、それが巨大企業の新たな技術水準と生産能力の実現=新工場建設に一体化された。
[11] この連関は、メジャーズの原油支配(原油の低価格かつ安定的供給)を起動力とするエネルギー基盤の前面転換、原料基盤の転換(化学・繊維)のインパクトを直接的に受けることによって戦後新たに形成され、高度成長期の革新投資の一方の牽引力となった。
[12] この系列は、高度成長期重化学工業化の基本線を形作った。この系列は、同一部門内需用の比率が著しく高いばかりではなく、最終需要における民間固定資本形成・輸出の牽引力となった。
[13] たとえば、機械の増産が鉄鋼の需要を作り出し、鉄鋼の増産が新しい製品市場を作り出したり、また、低価格の石油供給が火力発電所ブームを作り出し、それが送電線需要や電気機械市場を拡大させるといった相乗作用
[14] この時期の国産技術が量産効果および付加価値の小さい、いわば部分改良的もしくは小規模の技術が大半を占めていたのに対して、導入技術は技術革新を中心としたスケールの大きい技術であり、それぞれの産業部門のパターンをまったく一新させるものが多かった。
・鉄鋼業:ホット・ストリップ・ミル、純酸素上吹転炉
・自動車工業:完成車の組み立て技術、大量生産技術、デザイン技術
・重電気:東芝=GE、三菱電気=ウェスチングハウス、富士電機=ジーメンスの三社の包括契約
・電子工業部門:電子通信機器、テレビ、トランジスタ、電子計算機
・石油化学:ポリエステル系繊維、ポリプロピレン
[15] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.303-304。
[16] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.304。
[17] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.305。
[18] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.305。
[19] 加納『戦後史とジェンダー』インパクト出版会、2005年、p.198。
 「外に仕事をもつ主婦も持たない主婦も、ともに55年体制に組み込まれ、高度成長を支える役割を果たした。かたや〈前線〉で男たちと肩をならべ、かたや〈銃後の女〉として、経済戦士たる夫の内助と子供の教育に全力をあげる―。
  『電化生活』へのテイク・オフ〈離陸〉は、過酷な労働からの解放とともに、あらたな〈戦時体制〉を女たちにもたらしたといえるかもしれない」
  という見方もある。
[20] General Agreement on Tariffs and Trade: GATT
[21] 野林他著『国際政治経済学・入門』有斐閣、1996年、p.130。
[22]橋本『現代日本経済史』岩波書店、2000年。
[23] 『通商白書 昭和35年』p.150。
[24] 『通商白書 昭和32年』総論第4章
  http://www.meti.go.jp/hakusho/
[25] 『通商白書 昭和32年』総論第4章
  http://www.meti.go.jp/hakusho/
[26] 『通商白書 昭和35年』p.74。
[27] 『毎日新聞』1960年6月21日は、次のように海外からの貿易自由化の背景を述べている。「一昨年12月、非居住者勘定の交換回復にふみ切った西欧各国は近く居住者についても自由化の方向に進み、イギリス、ベネルックス三国が遅くも秋までに完全自由化となる予定で、その他のフランス、イタリアでも同時かあるいは少し遅れて完全自由化することが見込まれている」「一昨年来外貨準備高が着実に増加、去る5月末14億19百万ドルとこれまでの最高を記録した。昨年一年間の輸入金額に対する外貨準備の割合も37%で、フランスの35%よりも高く、今後も国際収支の不安を招く心配はなくなっている。」「経済成長は世界の水準に比べ、はるかに高く、物価も極めて安定しており、他のアジア・アフリカ諸国とは当然区別されるべきであるとの意見がIMF加盟国間の間でかなり強まっている。」
[28] 『戦後産業史への証言』p.170-171。以下は、この本を参照。
[29] 今井善衛は、昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。当時、いわゆる「民族派」の多かった通産省の中で、少数派であった「国際派」に属していた。城山『官僚たちの夏』の玉木は、今井善衛のことであろう。
[30] 『戦後産業史への証言』p.172-173を参照。(今井)「・・・34年の夏ぐらいには、だいたい自由化の方向が出ていたんですけれども、すぐ明日実行というわけにはいかない。・・・」(今井)「池田さんは自由化の方向で腹を決めていたのですが、政務次官の原田憲さんが繊維業者がたくさんいる大阪(3区)で、原田さんのところに逐一情勢が入ってくる。原田氏から『このまま自由化やったらおれもたまらないし、池田は総理をねらっているんだけど、これもマイナスになる。いずれにせよたいへんなことになる。その前に、ひとつうまくやろうじゃないか』との申し入れがあった。はじめ私どもは、35年のできれば秋ぐらいに原綿の自由化をやりたいと思っていたんですが、原田氏などの意向で、それでは通産大臣があまりにも強引なことをやりすぎると受け取られるので、自由化時期を延ばせといい、私に指示があって、ほとんど発表した実施時期を延ばすよう訂正させられた。大臣のお声がかりという名目でした。」
[31] 『通商産業政策史 6』p.13によると、1959年のガットの東京総会において、日本の貿易自由化の方針が公表されるにいたったとある。
[32] 『戦後産業史への証言』p.135。
[33] 同、p.141。
[34] 同、p.141。
[35] 同、p.145。
[36] 同、p.176。
[37] 『戦後産業史への証言』p.175。
[38] 同、p.177。
[39]
[40] 伊藤『池田勇人とその時代』p.108-109。
[41] 『通商産業政策史 17』p.376-378。
[42] 『差通商産業政策史 6』p.13によると、イギリスの例が書かれている。「戦後イギリスは、日本に対し厳しい差別的輸入制限を実施しており、また、30年の日本のガット加入に際して、ガット大35条の援用により最恵国待遇の供与を拒否した」とある。
[43] 『通商白書 昭和39年』p.116においても、問題点が指摘されている。日本の所得水準は低く、国富の乏しいこと、農業・中小企業の生産性が低いこと、大企業についても国際的には生産・経営規模が劣るものが多いこと、社会的間接資本が不足していること、消費者物価の上昇傾向が強いことなどなど。
[44] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[45]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、p.168。

2009年2月5日木曜日

2009年2月1日日曜日

テレビ番組とか

NHKを、最近、オンデマンドで見てます。

明日月曜日の深夜の、「トップランナー」に、成海さんが出られます。
明らかに、必見です。

映画「神童」での、彼女の存在感は、すごいと思った。ドコモのCMとかの成海さんは、すごく、かわいいと思った。。。

よく思うんですけど、こうした人たちの「輝き」は、どこから来るんですかね?「輝き」とは、ある種のカリスマ性とかでしょうか。

花をペットボトルに入れて、部屋に飾っているのですが、こうした「ゆとり」というのは、重要だと思います。けど、どうも、合理化(?)された思考の中では、こうした「ゆとり」の重要性を見過ごしてしまいがちになるのではないでしょうか。

2009年1月3日土曜日

英語便

英語便というところで、英語のライティングの勉強を始めました。期待大。

2008年12月28日日曜日

ビール

ビール:うまいビールが飲める店(利用したことはないが)

http://www.bacchus-yaesu.com/
http://www.40beersontap.com/
http://www.the-aldgate.com/
http://www.deliriumcafe.jp/reserve/
http://www.belgianbeercafe.jp/

コメディ・映画:外国人の先生お勧め映画(もちろん、見ていないが)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E7%94%B7

昨今の経済危機の結果、多くの人々が、仕事と、そして、住居を失ったというニュースを見たことがある方は多いと思います。今日、久しぶりに、ボランティアに行くと、そうした様子が、少しうかがうことができたような気がします。詳しいことは、書くことは差し控えますが、「公正」という言葉から大きく離れた世界が、確実に日本には存在し、そうした社会とも、同じ時間を共有しながら、私たちは、いるのだということは、感じます。「そんなの関係ねぇー」とか、「かわいそー」とかと、人が思うことは多様でしょう。まぁ、一回、少しでも、その現場を見たら、また、何か思うこともあるのではないかと、僕は思います。現場と言っても、パスポートが必要なアフリカとかアジアの最貧国ではなくて、東京神奈川圏内の中心部に、そうした現場はありますから、国立からだと90分程度で行けるでしょう。

2008年12月26日金曜日

金融危機について

一橋で、開かれた金融に関する討論会の映像が公開されました。

http://www.hit-u.ac.jp/function/outside/news/2008/1225-2.html

まぁ、聞いた感じだと、少し難しめですね。

12月20日から25日まで、小笠原に行ってきました。半袖でも、OKという環境は、少しカルチャーショックを覚えるものでした。船で、25時間。

最近のお気に入りの言葉:
He who is ashamed of asking is ashamed of learning.

2008年12月16日火曜日

「NHKスペシャル」を見て

「セーフティー・クライシスⅡ」を、NHKのオンデマンドで見ました。そんなわけで、この番組を見ていない方も、NHKのホームページに行けば、有料で見えます。

土曜日に、湯浅さんの御話を聞く機会がありました。正直言って、今の、日本の経済社会システムを分かりやすく、教えていただきました。

風船を例にして、今の状況を説明されました。高度経済成長を経た、日本は、「総中流」のような社会を築いた。下と上が少ない、膨れた風船をイメージして下さい。そうした経済社会が、(何が原因なのかについては考える必要があるが)、90年代の以降の規制緩和などによって、その風船の端をぎゅっと押した型に、今は変化しつつある。

その表れが、「貧困」層の増大であり、または、昨今輝かしくもてはやされている大金持ち層なのであろう。そして、確実に、その中では、「中流層」は減少しているのであろう。

高度経済成長によって、富の分配が幅広くなされたと言っても、たとえば、寿町などの事例を見ると、そうした時代に合っても、富の分配を受けられなかった層がいるように思われる。そういう意味で、こうした富の分配を受けられない層の増大が起きている。そして、その中心に、日本を代表する大企業なども、そうした「抑圧」構造に参加しているというのが、今日の姿なのかもしれない。

もちろん、企業側の「国際競争力」との弁解の弁も考える必要があろうが、この点については、もっと踏み込んで考える必要があるのではないか。

「9・11」は、世界を変えたと言われた。その背景の一つには、貧困問題があると言われている。日本は、こうした問題を、国際問題というよりも、もっと切実な、国内問題だとして、喫緊に捉える必要があるのではないか。

まぁ、言いたいことは一杯ありますね。

最近のお気に入りの言葉:
He who is ashamed of asking is ashamed of learning.