2008年10月26日日曜日

ほのぼの通信(1)

昨日、夜に、都庁の展望塔から、東京を一望した。キレイと、思った。日本には、地平線がないのは知っているが、そこから見ることができた景色は、光輝く光景が永遠と続いていた。ニューヨークとも、上海とも違う景色だと、感じた。日本らしい、と思うのは、僕だけかな。

今日は、テレビを部屋から撤去しました。ので、これから、僕と会っても、テレビ関係の話をすることは、絶対にありません。youtubeも、ニコニコ動画も、もともと見ないので、そんなわけで、完全に、映像文化とは、断絶しました。というのは、少し嘘で、映画だけは、細々と見ていく予定ですが。

正直、面白くなくなってきたというのが、その決断の背景にはあった。が、しかし、テレビも、興味深い情報を僕に供給していたということも、事実なので、どうなるのか?テレビを見ていた時間を、他の読書とか、考える時間にしたいというのが、理由。

一日は、24時間しかないので、全てを行うのは、不可能。そんなわけで、何かを追及するには、何かを捨てなければいけない(涙)。

最近というよりも、かれこれ、7年か8年くらいでしょうか、インプットの量が多すぎて、自分の頭で考えるということを、停止しがちになっている。

ウェーバーは、「あなたにとって学問とは何ですか」と問われたら、「どこまで耐えられるか、やってみたい」と、答えたそうです。どこまで思考を続けるということに耐えることができるのかについて、挑戦しようということですね。

僕なんかも、自分の頭で、考えようと思うのですが、なかなか難しい。案外、インプット0で、町とかをブラブラしている時に、思考が進んで行ったりするのが、何か悔しい。できたら、部屋で、椅子に座って、本を読んでいる時に、思考が回転してほしい。

「どうしてー」とか「なぜー」とかが、最近出てこない。昔、と言っても、そんなに昔ではないドラマで、「エジソンの母」というのがあった。伊東美咲さん主演で、うちの大学で、撮影していたドラマ。これで、エジソンの卵のような子供が、「どうしてー」とか言っているのを見て、自分が保守化、思考停止型、ダメダメ型になっているのを痛感。

案外、いろんな問題というのは、自分の頭の知識である程度の答えは出るのではないかと、最近、思うことが多い。けど、まだまだ、インプットを続けないといけないのも、事実ではある。

最近の経済崩壊を、1970年代以降の新自由主義路線の崩壊と、転換点と見る見方があるそうです。僕も、その大きな見方に、賛成ですね。これからの見方で、3つ位の大きな路線があるのではないか。パブリックセクターは、新自由主義で喧伝された効率という側面も維持しつつも、同時に、パブリックセクターのあるべき姿を再定義して、その役割を追及する。グローバル企業は、国家の枠組みを超えて、世界展開をする。そして、中小企業及び、家計などは、それが属する地域を軸に展開し、それぞれが、地域での役割を見出し、経済的そして社会的に、満足を得ていく(?)。うむ。

そんなわけで、ひとくくりの時代から、それぞれ、いくつかのアクターごとに、多様な展開をしていったら、良いのにと思うのでした。

2008年10月19日日曜日

世界は広いと思う

今日も、新しい世界を見ることができた。

本の紹介

パウロ・コエーリョ著、山川鉱夫、山川亜希子訳『アルケミスト』角川書店、2001年。

「夢」について考える機会を与えてくれる一冊。

友人の紹介で読むことに。その友人に感謝。

この訳者の経歴が興味深い。東大→大蔵省→翻訳家?
どうしてそうなったのか、少し、考える。

別の話・・・

昨日、友人と、ロージナで、話をする。

タイと、カンボジアの間で、小規模な紛争が起きているという話を聞く。今、ニュース上では、景気の話題が多いが、東アジアの近隣国で、こうした問題が起きている。注視していきたい。

2008年10月15日水曜日

『アキハバラ発』を中心に

岡山裕子さん、きれいって、思いながら、News23を見てます。

【ドキュメント番組】
水曜ノンフィクション
見ていて、面白いと思う反面、全体的に、突っ込みが甘いと思いますね。

(飛躍しますが、)元アメリカ兵の精神疾患を指摘しておきながら、どうして、日本の、自衛隊の、同じような問題を指摘しないのか。まぁ、今回は、こうした広げ方は、しないのは当然だとしても、この問題は、メディアが追及すべき問題のように、僕は思いますね。

岩波新書を書いた、堤さんが出演されていたのが、興味深かった。これからも、普段の映像メディアでは出ないような面白い方の出演を期待。

【アキハバラ発】
最初は、真面目に、最初から読んでいたのですが、何となく、主張が似通っているとか、何を言っているのか不明とか思うようになったので、斜め読みしながら、最後まで、読みました。だから、この本を読む前に、自分は、どのように、「この問題」を考えるのかをまとめておくと良いかもしれませんね。

佐藤俊樹「事件を語る現代」というのが、一番、納得することができたかな。

既存のメディアに対する批判もあった。また、既存の体制事態に対する批判もあった。いろんなことに対する批判がある。

何が問題で、どうすれば良いのかを考えていく必要性を痛感する。こうした時に、最近、問題だとされるのが、派遣などの非正規雇用の問題である。この実態は、どのようになっているのか???

日経ビジネスでも、キャノンの例を挙げて、非正規雇用には問題があると言っていた。この問題を、社会科学は、どのように、答えを出しているのか。

ノンフィクションの世界では、鎌田慧『自動車絶望工場』を読むと、工場での労働の厳しさを追体験することができる。

何となく、私たちは、不安な社会を生きているような感じがします。その不安とは何か???そうした不安の原因は、何なのか???この不安に関して、一つの事件を契機に、『アキハバラ発』では、多くの論者の意見が掲載されています。

不安というのも、フィクションのような感じがしますしね。

大きな問題ですね。

2008年10月13日月曜日

読みたいと、今日思った、古典

『国富論』

『きけわだつみのこえ』

『世論』

以上、すべて、岩波文庫。

2008年10月11日土曜日

情報の整理

映画「僕らのミライへ逆回転

映画「俺たちダンクシュータ

旅館「加賀屋

ユニークな商品「kurkku

雑貨とか「Motherhouse
新宿の小田急百貨店にも進出。今日、財布と、小さな入れ物を購入。なかなか、しっかりしているものを売っているという印象。一見の価値あり。社長は有名。

2008年10月10日金曜日

顎いたし

顎が最近痛くて、病院通いを始めました。一生分の病院通いを今しているようで、時間のある時に、体のケアができて、ラッキーだと思っています。

さて、少し前に、大澤編『アキハバラ発』岩波書店、2008年の本が出ました。最近の一連の問題を、どのように考えるのか?この本を通して、考えていく予定にしています。

映画「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」。面白いです。麻生久美子さんが、すごく、きれいですね。。。

昨日から、NEWS23を見るのを再開。岡山裕子さん、キレイ、と思いながら、メインキャストの意見に対して、ぶつぶつ言う訓練をしています。緩いので、簡単に、ぶつぶつ言うことができますけどね。

2008年10月9日木曜日

『夢をかなえるゾウ』

ドラマも、本も、面白かった。

特に、ドラマが、やたら、面白かったね。

スペシャルドラマに続いて、今度は、水川さん主役で、ドラマが始まりました。

2008年10月3日金曜日

ダメダメ作品((笑))

「国際化への過程」
2008年10月3日
【報告時間】
・60分

【構成】
1. はじめに
 1)「歴史」を書く
 2)「高度成長」の経済面の概観
 3)「高度成長」の時代を調べることの「意味」
 4)問題関心
 5)研究史への感想
 6)卒論の課題
 7)その課題の重要性
2.GATT加入まで
 1)占領後の課題
 2)GATT加入までの背景
 3)GATT加入
 4)イギリスとの不平等条約の意味
3.貿易為替自由化決定へ
 1)56年の「もはや戦後ではない」後の課題
 2)イギリスとかとの不平等条約解消
 3)自由化へ
 4)貿易為替自由化の結果
4.結び

【卒論】
1.はじめに
 1)「歴史」を書く
  永原は、歴史学に関して次のように言っている。

「現代・近未来に生きる国民に向けて、『現代』とは何かということを、可能な限り明快な形で提示することは、今日の歴史学に課せられたもっとも大きな責任であろう。・・・時代に背を向けたアカデミズムというものはもはや存立の余地がないし、自分で決めた小さな『専門』にだけとじ込もることは許されない[2]

中村は、歴史学の行方に関して、次のように言っている。
 
「これから先の歴史学の行方を考えると、いま『歴史学の危機』にあるのではないか・・・歴史家の社会的責任意識は希薄になったし、若い世代の歴史離れ、保守化が進んでいる。今の学生や若いサラリーマンは、漫画やテレビの歴史物語などから歴史を学んでいるらしいが、他方では歴史研究者の怠慢、無力があるのではないか。この問題を深刻に考えないと、歴史学は、『社会の無用の長物』になりかねない[3]

こうした意見を、どのように踏まえていけばいいのだろうか?

「歴史」を書くということは、どういうことなのだろうか?
  →昔の「事実」を「解明」すること?
    ↓
   昔の事実を、趣味で、調べているのと、どう違うのか?
  →マルク・ブロックは、次のように言っている。
 
  「現在の無理解は運命的に過去の無知から生まれる。しかし、現在について何も知らないなら、過去を理解しようと努力してもおそらく同じように無駄であろう。」
  
   そして、これを説明する逸話として、次も続けて書いている。

  「私はストックホルンにアンリ・ピレンヌとともに行った。到着するとすぐに、彼は私に言った。『まず何を見ましょうか。真新しい市庁舎があるそうですよ。それから始めましょう』次いで、まるで私の驚きを前もってさえぎるかのようにつけ加えた。『もし私が好古家なら、古いものにしか目を向けないでしょう。しかし私は歴史家なのです。ですから生を好むのです。』実際、この生きたものへの理解能力こそ、歴史家の主要な特質なのです。」(『歴史のための弁明』p.25)

  つまり、
  ・現在への問題意識。
・歴史は、過去による現代の説明。 

時間とともに、政治・経済・社会は急速に「変化」する。
  その「変化」における「連続」と「断絶」を描きたすことにより、その時代は、どのような時代であったのかを明確化し、そして、現代の位置づけを明らかにする。

2)「高度成長」の時代の経済的な側面の概観
第2次世界大戦前の日本は、植民地を有しており、すでに先進国に属していた。しかし、戦前でもっとも豊かだったとされる1930年代中頃においても、人口一人当たりの実質GDPは、アメリカの3分の1、イギリスの3分の1、フランス2分の1、オランダの2分の5程度だった。そして、チリやアルゼンチンよりも低く、「先進国」の後尾にかろうじて連なっているにすぎなかった[4]
戦後直後においては、敗戦による経済水準の低下と回復の遅れは欧米諸国よりも著しく、1950年には、日本の人口一人当たりにGDPは、アメリカの5分の1、イギリスの4分の1、フランスの3分の1、オランダの3分の1程度になり、その差は、拡大し、「先進国」のグループから脱落したということができるだろう。ちなみに、当時日本はアルゼンチンの3分の1、チリの2分の1程度でもあった。
1950年の日本の人口一人当たりのGDPは、韓国や台湾の約2倍、中国やインドの約3倍であったと推計されている。途上国とまでは言えないが、日本は、アジアの国々と先進諸国との中間に位置していた。1950年代に、「中進国」という表現がしばしば用いられたそうだが、まさに当時の日本は、「中進国」であったのである。
1960年になっても、以前、アメリカの3分の1、イギリスの2分の1、フランスの2分の1、オランダの2分の1程度であった。50年と比べると、状況が改善していることは明らかではあるが、その差はまだ大きい。その差がほとんどなくなるのは、1960年代の末まで、待たなければいけない。
  次に簡単に人口規模について見ると、日本は、1820年からずっと、「先進国」内においては、アメリカを除くと、最も多くの人口を抱えていた。1960年において、日本はアメリカの2分の1程度ではあるが、イギリスの1.8倍、西ドイツの1.5倍であった[5]。「先進国」内においては、日本は人口の多い国であるということが確認された。
また、実質GDPを他国と比較した場合、1964年にイギリスを、66年には西ドイツを越えるまでに急成長し、アメリカに次ぐGDPを有するまでにいたった[6]
1950年から1973年までのGDP成長率は年率9.2%で、これは、同じように戦後高度成長を記録した西欧諸国を大きく上回るものであった[7]。結果、わずかの間で、日本の産業地図が激変することになるのである。
  就業者の産業別分布[8]について見ていきたい。1950年の日本の農林水産業は、48.3パーセント、鉱工業には22.6パーセント、サービス業には29.1%が従事していた。それが、  高度成長を経た1973年になると、農林水産業は13.4%、鉱工業は37.2%。サービス業には49.4%となった。明らかに、農林水産業従事者が鉱工業またはサービス業へ流れたことが確認される。この就業人口構成の変化のテンポは、非常に速いものであった。他国との比較をすると、米国は1950年において12.9%、33.6%、53.5%であったのが、1973年には、4.1%、31.2%、64.7%であった。英国は1950年においては、5.1%、44.9%、50.0%であったのが、1973年には、2.9%、40.3%、56.8%であった。どの国においても、農林水産業からの移動が見られる。しかし、日本における農林水産業従事者の48.3%から13.4%の変化は、他国と比較したときに、その規模からして、あまりにも巨大である。日本における高度経済成長のインパクトの大きさが推察される。この就業人口構成の変化のテンポは、世界史的に見てきわめて早い、注目すべきものであった[9]、そうである。

3)「高度成長」の時代を調べることの「意味」
  「高度成長」の時代を描いた作品は多い
  映画:「Always 3丁目の夕日」「Always 続3丁目の夕日」「フラガール」「実録・連合赤軍」「パッチギ!」「パッチギ!LOVE&PEACE」・・・
  写真:東京都写真美術館では、2007年8月から10月において「高度成長期」の写真展が開催された。東京都写真美術館編『昭和の風景』新潮社、2007年。
     赤瀬川原平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波書店、2007年。
     土門拳『筑豊のこどもたち』築地書館、1977年。
とか
  テレビ番組:NHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」とか

  ・様々な媒介を通して、「高度成長」の時代を見ることは多い。
・各自の見たい見方で、「高度成長」の時代を見ている。
・そこで、私たちは、そこに大きな「変化」があったことを見ている。その「変化」というのは、現在の日本の原型となっている「経済大国日本」への「変化」なのではないかと思われる。
 ・「失われた10年、15年」の時代の中で、そして、その時代を経て、これからの時代を踏み出していくために、現代日本の軌跡、特に、「懐かしい」日本と「輝かしい」日本の歴史への需要が増したことが考えられる。
 
・中国の経済発展の勢いは凄まじい。日本の、これからの最重要課題が、
中国との関係であろう。
・中国脅威論なども聞かれるが、日中が、そして、東アジアが、どのように変化していくのかについては、まだまだ、これからの課題であろう。
  ・こうした中国の姿が、日本の「高度成長」を見直す動機にもなっているような気がする。確かに、経済的に発展して、私たちと同じ「同時代性」を有していると感じる半面、まだまだ「遅れている」という側面が見られる。こうした姿は、私がイメージする日本の「高度成長」の姿、つまり、「新しい」側面と「遅れている」側面とが混沌としている状況と大変に類似しているように思えて、興味深い。

・現在の日本をより良く理解するために、そして、中国の経済発展、社会の近代化という現実をどのように理解するのか、この2点に、「高度成長」を今、見直す必要性があるように思われる。

 1950年代に関して、森先生は、次のように、昭和30年代、そして、1950年代に関して、言っている。
 
「1950年代の日本社会の性格をどう見るかという課題は、日本現代史の大きな問題となっている。マスコミ、ジャーナリズムの成果では、昭和30年代ブームが起き、さまざまなところで昭和30年代の回顧展が開かれ、映画『三丁目の夕日』が大当たりした。昭和30年代は西暦では1955年から1965年にあたるが、高度成長が始まるころ、まだ人と人とのつながりが濃密で、下町の人情が残っていた。このような『昭和30年代』の古き良き日本をノスタルジックに回顧することが、環境破壊と人間破壊がすすむ危機的現代への癒しとなったのである。まさに1950年代は、古い日本がいまだ自己主張し、新たな日本とせめぎ合う時代であった。同時に1950年代は、現代日本の原点が形成された時である。政治的には1955年体制と言われる保革の政治構造の成立、1955年からの高度成長の開始である。すなわち、高度成長以前の『古い日本』と高度成長の開始による『新しい日本』が激しくぶつかり合い、せめぎ合う時代、その意味で社会変容がもっとも急激に展開した時代でもある。太陽族など新たな都市文化・若者文化が生まれ、伝統的な農村社会の変貌が始まる時代でもあった。1950年代は、まことに興味深い時代であり、おもしろい社会でもあった。[10]

原朗[11]は、次のように、高度成長について言っている。

「農地改革を経て、高度成長による工業部門の急拡大の結果、明治以降もゆるやかに進行しなかった農業人口の分解が一挙に展開することになったのである。さらに長期的な観点からみれば、弥生時代に形成されてから連綿として続き、農地改革によってもなお解体されなかった農業共同体が、高度成長期の間に大きく崩れ始め、解体への道をたどることになったのである。その意味では、高度成長期における経済構造の変化は、農地改革・地租改革・太閤検地などを飛び越えて、はるか2千年前の弥生時代における変化に匹敵するといってもよいと思われる」

農村を解体させるほどの都市における経済の変化が高度経済成長期に起きた。そして、それと同時に、農村でも、経済の変化が起きていったのであろう。

 日本に、大きな「変化」を与えた時代である「高度成長」の時代。この時代は、どのように日本を変え、現在の日本を形造ったのか。このことを、中国の経済発展及び近代化に刺激を受けながら、見直していくことは、今日において非常に重要なことだと考える。

 4)問題関心
  2007年の5月に改正会社法が施行されるにあたって、その前後においては、大きな外資恐怖論が、日本社会で起きた[12]。三角合併の解禁によって、外資による日本買いが増えると考えたからであろう。
 →この事例に示されるように、日本における「外資脅威論」は、まだまだ、最近でも、見られる。そもそも、こうした意見が出てくること自体が興味深い課題だと思われる。

私は、2004年度入学ですが、その時期前後は、日本では、欧米的、特に、アメリカ的なものが、積極的に受容された時期のように思います。入学式の講演者は、三木谷さんでした。日本は、「失われた10年、15年」の時代を乗り越えるために、規制改革を実行し、欧米スタイルに適応しようとしました。MBAが、やたらともてはやされたのが、記憶に残っていますが、やたら横文字が流入してきたことを記憶しています。そういうのに対して、私は、積極的に学ぼうとした半面、反感を覚えたのも事実でした。「欧米か」という、突っ込みがありましたが、そんな感じです。それから、数年たち、当時、言われたいたものの中で、すぐに浸透したものがある半面、受容されなかったものがあるのも事実のような感じがします。このあたりのところから、「国際化」への対応というものに興味を持つようになりました。

 5)研究史への感想
 ①経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したのかについて検証しているものが多い。感想ではあるが、「冷戦」という国際秩序の関しては、言及が少ないように思われる。
 ②国際関係史、外交史は、国際関係と政府に分析の焦点が当てられている。もちろん戦後における外交の場合、経済という側面は大きいので、経済についても言及されている。もちろん、経済については、マクロ面が中心であるが。
③「高度成長」の時代、国際秩序は、「冷戦」という体制に、強く規定されていた。そして、その影響は、「国内冷戦」という形で、国内にも波及していることがあった。特に、国際化の過程は、国際関係の中で行われているので、「冷戦」に関して、強く意識しながら、考えていく必要があろう。
④市民に対する視点を入れていく必要があるのではないか。この点に関して、浅井は次のように言っている。
「経済史においては、あまり論じられることはないが、大衆運動、市民運動、さらには一般大衆の世論は、重要な局面において、経済を方向づけたと考えられる。工業化は膨大な労働者を生み出し、春闘に代表されるような広範な労働運動をもたらしたが、他方で、都市化は、労働者意識とは異なる、新たな市民意識の形成を促した。[13]
 
 6)今回の課題
  ・戦後日本の高度経済成長が日本社会を大きく変化させた
  →いかに日本社会を変化させたか?
  ・ここでは、高度経済成長期の「国際化」、貿易為替の自由化への過程に焦点を当てながら、そ
の適応過程を見ていく。

 7)その課題の重要性
 日本の経済大国化への道は、貿易大国の道を経て、達成された。敗戦国、また、戦前においても、「先進国」内では、経済力が低かった日本が、どのようにして、「国際化」を果たし、経済大国化に突き進んでいったのかについては、重要なポイントであろう。
 中国も、近年、WTOに加盟して、貿易自由化への道を進んでいるが、まだまだ、問題が山積しているように思われる。他の発展途上国においても、国内産業の保護のために、貿易の自由化の問題を抱えている国は多い。
 そうした中で、日本は、どのように、貿易の自由化へ進んでいったのか。そして、どうして、それが、結果的には、上手くいったのか。この点は、経済成長期における日本を理解するためには、非常に重要なポイントではないかと思う。

2.GATT加入まで
 1)占領後の課題
 ①自立した経済へ
 1949年中華人民共和国の設立、そして、朝鮮戦争。これらを通して、日本の東アジアにおいての、冷戦政策上の、重要性は増すことになった。アメリカは、経済的な失敗が、日本の共産化につながると考えたために、日本の経済を支えることになる[14]
講和への歩みが明らかになった昭和25年末になっても、日本経済はなお年々数億ドルにのぼるアメリカの対日援助によって、経済循環を支えられている状況にあった。そのため、日本の経済的な自立が喫緊の課題として取り組まれていくことになったのである。
  独立後、占領下に設定された統制の大枠は外され、生産と消費の経済活動は基本的に自由となった。日本政府は、日米協力という基本条件を踏まえて、独立後の日本経済がいかなる途をたどって自立・発展しうるかに大きな関心と期待を寄せ、様々な予測を立てた。そして、それを実現するために、戦時・戦後の技術的立ち遅れを回復するために、産業の合理化・資本の蓄積が進められていくことになった。
  1949年4月に一米ドル=360円という単一為替相場が決定され、ようやく正常な外国為替取引が設定され、正常な外国為替取引が復活すべき基礎が打ち立てられた[15]。1949年2月最高司令官覚書として為替管理について強力な指示が提出された。これは、「外国為替と輸出入貿易に関して、総合的に調整された管理制度を確立」すべきことを命じ、また外国為替管理委員会の創設を奨励するものであった。これを受けて、49年3月外国為替管理委員会が成立され、新しい為替管理法案の立案に乗り出すことになり、12月に「外国為替および外国貿易管理法」(=外為法)が制定されることになった[16]
  「外為法」のもとでは、輸出は原則として自由となり、商社が輸出で獲得した外貨は10日以内に外国為替銀行に売り渡さなければならず、さらに外国為替銀行は、これを政府に売り渡さなければいけなかった。外国為替を政府に集中するこの制度によって、限られた外貨をできるかぎり有効に用いるための制度が設計された[17]
   結果、産業保護・育成のための、きわめて強力な政策が採用されることになった[18]。貿易の自由化は、こうした政府の為替管理・制限を撤廃しようとするものであった。
   こうした日本の保護主義は、外国からの輸入を困難にした。そのため、日本企業は、外国技術の導入が比較的に容易になっていたと考えられる。結果、導入技術をテコに、重化学工業化が連鎖的に進んでいくことになったのである。
   重化学工業化によって、年間の民間投資や、民間資本ストックが大幅に増加したそ
して、そこには、「投資が投資を呼ぶ」メカニズムが存在していた。
   高度成長期の重化学工業化は、それを推進する3つの主要な柱=産業連関の3系列を有していた。第1の系列は、鉄鋼・金属・窯業土石―建設・土木―不動産の連関である[19]。第2の系列は、石油―化学・電力の連関である[20]。第3の系列は、銑鉄・粗鋼―鉄鋼一次製品―、一般機会・電気機械・輸送機械の連関である[21]
  このように高度成長期の重化学工業化は、この3系列への主要な産業連関の集中、系列内内部循環の確立として進行し、3系列内部の相乗作用[22]が累積的に進行した。そして、国内の最終需要と輸出の拡大が、この過程を一層加速させた。高度成長期を通じて、生産の増大、雇用の拡大、新設備の導入が、絶えることなく進んだのである。
  こうして重化学工業化が「投資が投資を呼ぶ」というメカニズムで進んでいったのである。ただ、注意すべきことは、重化学工業が大規模な技術革新やエネルギー革命を伴っていたということである。そして、その大規模な技術革新の大きな特徴は、外国技術の導入[23]によって、初めて可能になったということである。
  ②家電の受容過程
 ・昭和25年を「日本の家庭電化紀元元年[24]
 →この年、家電需要が200億円というペースに乗った
 ここに至るまでの大きな2つの変化
 ☑消費経済に対するものの考え方の大転換
 
  「戦争前の消費に対するものの考え方は、田舎の地主の息子は学校に卵焼の弁当を持ってきてよろしい。しかし小作人の子供は梅干しの弁当で十分。この禁を破り、小作人が卵焼をつけ、もしも地主よりいいおかずだったりしたら、けしからん、という時代です。それが日本のずっと長い間の歴史だった。ところが、戦争で地主だの小作だのといっておれるかということになった。
   これが戦後になると、金があればなにを買ってもいい、つまり、消費生活の階級意識は全くなくなった。消費生活の平等性が浸透してきた。これは日本の消費経済の基本的な変化です。・・・私はそういう消費の社会的な観念がまるっきり変わってきたことが、消費財産業の伸長を見る場合、欠かせない視点だと思う。[25]

 ☑女性が強くなった
 
  「・・・女性家庭内の地位を回復し、家内労働はスムーズに電化製品に置き換わっていった。[26]
  「日本の家電の商売がどの方向へ持っていくかを研究するためアメリカに・・・調査に行った。・・・アメリカの全私有財産は、6割以上は婦人名義になっている。・・・そんなわけで、女性の市場に対する影響力はそうとう強いと踏んだ。[27]
   
・こうした女性の家庭における消費財購入における決定権を助けるための雑誌なども、この時代刊行されることになった。『暮らしの手帖』暮らしの手帖社。1948年創刊。
・雑誌内で、商品テストを行ったりした。しかし、これは消費者のためではなくて、生産者が、よりよいもの作りができるようにするためのものだとしている。
・こうした雑誌の存在が、消費者と、生産者をつなぐ重要な働きをして、生活の近代化[28]に大きな貢献をしたのではないかと、考えている。

 家電製品などの民生エレクトロニクスが、日本では発展した理由
 ・日本では、軍需産業を断念し、民生産業に特化したから
   日本の反戦平和運動の存在が、軍需産業の育成を妨げた。そして、断念。 

2)GATT加入までの背景
  ①GATT[29]とは?
   ・GATTの誕生
1930年代の国際経済に生じた経済紛争を歴史の教訓
    →ブロック経済と、対外膨張主義
     このことが、第2次世界大戦の経済的背景
     →米英を中心に、経済的排他主義、国際貿易の国家介入を規制する
枠組みの模索
 ・ガットの貿易自由化のための諸原則
     ☑最恵国待遇の無差別適用(第1部1条)
     ☑内国民待遇原則(第2部3条)
     ☑数量制限の原則禁止(第2部11条)と、その無差別適用(同13条)
   ・この体制が前提とする条件[30]
     ☑自由貿易はあらゆる国の経済を拡大する
     ☑貿易が行われるのは自由な需給関係によって価格が決定される民間市場に
おいてである
     ☑政府の市場への介入は、市場に「歪み」をもたらすものであり、それは国際価格のシグナルに合わせて国内産業調整を行う時期をもっぱら引き延ばす目的を持つにすぎない。
     ☑すべての国が参加する多国間交渉によって作られた貿易協定の方が、「2国間協定」や特定分野についての「個別協定」などよりもはるかに望ましい。
     注:この前提が有効に機能するためには、
      ✓国際市場環境に独占や寡占などの競争阻害要因が存在しないこと
      ✓規制などによって、市場価格の伸縮性が妨げられず、また、生産要素が国内市場で自由に移動しうること。など。
      これらの競争阻害要因が存在しないことが必要であるが、実際の市場には数々の競争阻
害要因が存在する。
 →この競争阻害要因を是正するために、国家は必要に応じて市場に
介入することになる。

何が最適介入の条件・手段かについての厳密な合意があるわけではなく、各国政府の裁量に委ねられている。
→経済の政治化を加速させる一因となっている
   ・その特徴:例外規定
     ☑条件付きの農業の輸出入制限(第2部11条2項)
     ☑輸出補助金の容認(第2部16条)
     ☑国際収支の悪化を避けるための条件付き数量制限(第2部12条、18条)
     ☑セーフガード(第2部19条)
    →ガットは、ガット・プラグマティズムという言葉が示すように、自由貿易の理想を追求するのではなく、貿易の自由化を漸進的な実現を目指す組織
  ②加入への背景
   ・日本の「自主外交」
   →アメリカには、日本が「東側陣営」に行くのではないかという危機感
    ☑自主外交
     1956年11月日ソ国交回復
     日中貿易復活への要求
      背景:ココムの結果、日中貿易が戦前のようにはできない。
         →民間からの貿易の要望
         →輸入超の日本にとって、戦前に大きな市場であった中国との貿易を望む声
    結果、日本の輸出市場確保として、東アジア諸国との貿易を解放するとともに、イギリスなどが反対する中、説得し、GATT加盟へ。
 ✓イギリス
  国内的には、戦前のダンピングの記憶が濃いため、日本のGATT反対。
 しかし、冷戦の論理から、日本の共産化を防ぐことは至上命題。
 →結果、GATTの加盟は認めるが、GATT35条を日本に適用。
   これは、当初だけ、最恵国待遇を与えないというもの。イギリス他、14ヶ国が日本に適応。
   
 3)GATT加入(1955年9月)
  ①その結果?
   ☑政治的
    国際的地位の向上
     投票権の獲得、国際交渉の場に参加できることにより情報の入手
    
   ☑経済的
     アメリカに対する輸出が急増
      アメリカとの貿易摩擦が始まる
 4)イギリスなどとの不平等条約
  ①どうして?
   国内における繊維業界からの圧力
    戦前のダンピングという記憶
  ②そのことへの影響?
   実質的に、GATT関係に入ることを拒否することになっているので、変化なし
3.貿易為替自由化決定へ
 1)56年の「もはや戦後ではない」後の課題
  ①日本の経済状況
戦後日本は、加工貿易型の経済構造を取るようになる[31]
輸出額について見た時に、1953年時点においては13億ドルであったのが、56年には25億ドル、59年には59億ドルと増えていった[32]。53年の段階と比べて、4.5倍もの増加が見られた。しかし、59年における他国と比較した場合に、まだ、この段階では、差が大きいのは明らかである。アメリカは日本の約5倍、イギリスは約3倍、西ドイツは約3倍であった。
  次に、日本の貿易構造について見ていきたい。1950年の段階においては、総輸出額に占める重化学品の割合は30.4%、その他は69.6%であった[33]。そして、1959年には、重化学品の割合は39.8%、その他は60.2%であった。確かに、貿易構造における高度化は進んでいるのは認められるのが、ただし、その割合は十分ではないということができそうである。通商白書も、輸出市場の不安定性は日本の輸出商品構成にもよるところが大きいとの見解を示している。
「非工業国に対する輸出は,他の先進工業国が機械や化学品に大きなウェイトをかけているのに対し,繊維品など消費財の比重が圧倒的に高く,プラントは依然伸び悩みの状況である。さらに,これらの国の需要は次策に重化学品に移行していっているので,このことは将来の日本の貿易にとって大きな問題となるものと思われる.先進工業国に対する輸出は近年鉄鋼とか船舶など投資財がかなり伸びているが,これは相手国側の供給力不足によるという要素を含んでいる。またこれらの国に対する輸出の大宗である消費財については輸入制限の動きがあり,嗜好の変動も激しいので,たゆまざる輸出努力が必要であろう。[34]
 貿易体制の不備に関しても、通商白書では指摘している。
 「戦前においては,貿易担当者である商社,為替銀行,海運業者が諸先進国に,伍して,きわめて活発な行動をつづけていた。戦後はこれらは,いずれも力を失ったが,とくに商社については,海外支店網のそう失とインフレ過程における資本力の低下によって著しく弱体となった。近年貿易の回復にともなって次膨大な借入金によって業務を行い,本来の機能である海外活動はなお不十分である。 またきわめて多数の商社が乱立して,輸出入ともに過当の競争をくり返しているが,そのために不利な取引を余儀なくされるはかりでなく,海外市場の維持にも悪影響を与えている。 これはひとり商社のみではなく,製造業者の段階においても,同様な傾向がみられるが,これらは貿易の順調な発展を阻む大きな要因といわなけれはならない。[35]
  以上、見てきたように、確かに、高度成長が進むにつれ、日本の輸出額は増え、また、貿易構造の高度は進んでいったが、この段階での貿易自由化は、なかなか厳しいものがあったのではないかと、推察される[36]
 
 2)イギリスとかとの不平等条約解消
  ①その背景
   ☑レバノン危機における日本の役割
   →日本の国際政治における役割を見直すことになるきっかけ
     プレゼンスの上昇

   ☑GATT35条に代わる保護措置を認めることを了承
    輸出の自主規制を前提にした二国間条約
    1963年4月:日英通商航海条約  
 3)自由化へ
 
①国際的な背景
では、日本がこのような経済状況の中で、どうして、貿易為替の自由化が求められていったのか。その背景[37]について、見ていきたい。

  まず1つ目の背景としては、戦後圧倒的な経済力を有し、その経済力で、西側世界を支えていたアメリカが、自由化要求を始めたということがあった。それは、西欧や日本の経済が発展するにつれて、アメリカの経済的地位は低下し、これまでのように経済援助や海外軍事支出を行うことができなくなったということがあった。そして、その「ドル散布」を貿易黒字でカバーしきれなくなり、1958年頃から慢性的なドル流出に悩まされるようになった。しかも、59年には日本の対米輸出が大幅に増加して、対米貿易収支が戦後初めて輸出超過を記録したということがあった。
  2つ目の背景としては、西欧諸国が1958年にEECを結成するとともに、自国通貨とド
ルの交換性を回復し、為替取引の正常化に踏み出し、対米差別輸入制限を大幅に撤廃す
るということがあった。このことも日本の貿易・為替自由化を促す一因であった。
 
②国内からの背景
しかし、貿易自由化の動きは、国外からだけではなかった。日本の国内においても、いち早く時代の変化を見定めて、それに素早く適応していこうという考えもあった。『戦後産業史への証言』[38]における今井[39]の話によると、1958年10月あたりの話として「・・・国内には割り当てによる弊害問題があるし、外には貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本精神に基づく動きが出来てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろう」と考えていた人もいたそうだ。
  そして、西ドイツが8条国への移行を宣言し、イギリスも宣言し、そしてフランスも間もなく行われるようになるだろう。アメリカ、カナダはすでに8条国になっている。つまり、欧州の国々では、次第に為替管理、輸入宣言を撤廃していく中で、必ずや日本にも、その波が押し寄せてくることは避けられない状況であるとの認識がもたれるようになった。そして、今井は当時、通産大臣だった池田勇人にレクチャーをして、賛同を得たらしい。
  このような国内における認識にもとで、原綿・原毛[40]を中心とする輸入自由化促進が発表[41]され、そして、1960年1月には政府は貿易自由化促進閣僚会議を設けることになる。つづいて、3月に通産省が、貿易・為替の自由化の基本方針を決定し、6月に貿易為替自由化計画大綱が発表されることになった。
  以上のように、国外からの圧力があったようであるが、それ以前に、日本の国内において、その国外における変化に対して、敏感に反応して対策を講じようとした人たちがいた。そして、結果として政府の政策となり、60年6月の貿易為替自由化計画大綱という形に至った。

③貿易自由化の「積極派」・「消極派」の意見について
ここでは、貿易自由化に対する「積極派」「消極派」の考えについて見ていきたい。まだ、十分に調べられていないので、今回は、『戦後産業史への証言』にある佐橋滋および今井善衛の「証言」を使って、整理していきたい。ちなみに、この両者は、昭和30年代において、貿易自由化に対して消極または積極の派閥の中心的な存在であった。
まずは、「消極派」に属していた佐橋の考えに見ていこう。まずは、貿易自由化の考えについて見ていく。「私の考えは、基本的には貿易自由化は当然進めるべきだ、しかし、ヤミクモに走られてはかなわない。当時、戦後10年で一応経済成長はなし遂げられたけれども、日本のそれぞれの産業、業種の基盤は世界的に見て強い、堅実だという認識は持っていなかった。日本という国は貿易のサヤで生きていく貿易立国です。いってみれば原料を輸入して製品にして輸出してそのサヤで生きていく以外にもう手のない国でしてね。産業が貿易の自由化によって壊滅的な打撃を受けたら、日本はもう立つ瀬がない。だから、貿易自由化に対抗するには、どうしても産業構造体質の改善をやらなければならないし、それがある程度メドのつくまで簡単に貿易の自由化をしてもらっては困る。私は準じに自由化をやっていく。期限をつけて何年後にはどうするというメドをつけて、その間に少し荒療治ではあっても、産業界は体質を強めるための努力をせよ。こういう段取りで貿易の自由化に対抗できるようにしたらどうか、という考え方」[42]だそうだ。
だから、そのため、池田通産大臣が進める自由化の動きに対して反対することになった。それは、軽工業の自由化と、重工業の自由化を一緒の次元で考えている点に問題があるということであった。例えば、自動車業界に関しては「輸入自由化すると、日本の自動車メーカーはつぶれてしまう」という認識を持っていた[43]。そして、「当時、日本経済発展の柱は、かつての繊維から重化学工業へ移ってきているし、その重化学工業がこれから伸びようとしているところを、性急な自由化でもみくちゃにされたのでは、日本経済の伸びはないという使命感」を持っていたそうである。[44]
自由化を推し進めようとした政治家池田の路線に関しては「とにかく政治家の考え方には、『なんとかなる方式』があるわけです。追い込めば日本の経済の底力でなんとか対応する。安全、安全とブレーキを踏んでいるよりは、オカイコぐるみから出して、風の中へ放り出したほうが早いと考えておられたようですね」と、厳しく評されている。[45]
  次に、貿易自由化「積極派」の今井の考えについて見ていきたい。まず、インタビュアーの次のような発言があった。「・・・担当されている局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。」そして、今井さんの発言は「それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、なるようにしかならないという見通しが、われわれは先に立ちますからね」とある[46]。これは、上で見た佐橋の批判する池田の考えに通呈するものがあるように思われる。
  自動車業界に関しても「業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組み立て工場を作るかもしれないと、外資の進出を非常に恐れていました。」とある。そして、その外資恐怖症の原因について次のように言っている。「当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、『そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もう飲まざるを得ない、妥協せざるを得ない』という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ずうっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考えです」[47]のようだ。
その考えの基盤には、日本の産業に対する次のような考えがあったそうだ。インタビュアーの発言として「貿易の自由化を一方的に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって。業界の引き締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる。繊維なんかはそんなことしなくてもよかったわけですが、他の産業についてはそういう考えはなかったですか。」とある。それに対して、今井さんは「それはありましたね。・・・その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自体も自信がなかったのでしょうね。それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任ではなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の法はやっぱりミクロの問題として、また自分たちの問題として真剣に考えています。あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような態度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどのように見ていたんだという気もしますね。」[48]とのことです。

  このような見方の違いは、どのような所に起因するのだろうか。これについては、それぞれの価値観に起因しているというのが、現段階での考えである[49]
ただ、池田勇人も、政権についてからは、その中間の政策を進めていくことになる[50]。池田は、首相就任後の新政策への抱負を次のように語った。インタビュアーが「貿易為替の自由化から、今後国際収支を心配するむきがあるがどうか」との質問に対して、池田は「とりこし苦労する必要はない。24年、私が大蔵大臣になったとき、手持ち外貨はゼロであった。それがいま15億6000万ドルもある。外貨準備の手持ちは潤沢で心配ない。輸入原材料がふえて外貨が減っても、綿花・石油・羊毛の在庫が増えれば心配する必要はない。自由化して輸入が増えるようでは、なんにもならない。自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段である。このごろ輸入がふえているのは機械類である。これは将来の輸出の準備をしているのだから、心配はいらない」と、貿易自由化への不安は無いと答えた。また、インタビュアーは「貿易自由化で安い商品が外国から流れこむという心配について、首相の考えを聞きたい」と質問した。それに対して、池田首相は「外国から安い商品が流れこむまえにこれを防ぐ準備をしてから、自由化をする。日本の商品が外国商品とくらべて、どうしても安くならないものについては、関税などで対処する。ガットでも除外例が認められているのだから、これを適用してもらうようにすればよい」と、保護的措置を講じつつ、自由化を進めていくことが示された。
  以上のように、考えの上では、様々な、対立があったようだが、実際においては、その中間のような政策が採られていったことが分かる。

(4)貿易・為替自由化計画大綱
1960年6月に、政府は「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定した[51]。原則輸入制限、例外的に自由から、輸入は原則的に自由へと変わっていくことになる。
この大綱はまず、「資源に乏しく人口の多いわが国経済が今後長期にわたって発展するためには、世界の経済交流の進展に即応しつつ、海外諸国との自由な交易を一層拡大してゆくことが不可欠の要因であると考えられるので、自由化を極力推進することは、世界経済の発展のための国際的要請たるのみならず、わが国経済自体にとって、きわめて重要な課題となっている」と述べ、自由化に前向きの姿勢を示した。そして、自由化の国内経済へのメリットとしては、「・・・貿易および為替の制限を積極的に緩和し、経済的合理性に即した企業の自主的な創意と工夫を一層重視することは、わが国経済に対して多くの好まし効果を期待することができる。すなわち、自由化により、従来の管理統制に伴う非能率や不合理性は排除され、低廉な海外原材料等の自由な入手が一層容易となり、産業のコストは引き下げられ、企業は国際的水準における合理化努力を要請されるなど、自由化は経済資源の一層効率的な利用を可能ならしめ、経済の体質改善を促進するとともに、広く国民の生活内容の向上に寄与し、もってわが国全体の利益を増進するものである」と言っている。
 もちろん、メリットだけでなく、問題点があるということも指摘されている。「しかしながら、実際に自由化を促進するに当たっては、まず長年にわたり封鎖的な経済の下で形成された産業経済に及ぼす過渡的な影響に十分考慮を払う必要がある。またわが国経済は西欧諸国とは異なり、過剰就業とこれに伴う農林漁業における零細経営および広範な分野における中小企業の存在などの諸分野が包蔵し、また育成過程にある産業や企業の経営、技術上の弱点など多くの問題を有している上に、わが国を取り巻く国際環境についても、欧州共同市場のような長期的に安定した協力経済圏を有していないこと、およびわが国に対してなお差別的な輸入制限措置[52]が取られている例が多いことなどについて注意する必要がある」とある[53]
 そして、この大綱において、輸入自由化のタイムテーブルが明らかにされた。「本計画を推進することにより、昭和35年4月現在において40%であった自由化率を、3年後においてはおおむね80%、石油、石炭を自由化した場合にはおおむね90%に引き上げることを目途とする」とされた。

 以上、貿易自由化に対する日本政府の姿勢について見てきた。積極的な姿勢を示し、そして、そのメリットを強調するも、その問題点も指摘されるなど、当時において、「積極派」「消極派」で、対立していたことが推察される。


4)貿易自由化の結果
  自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[54]。1960年4月において、
40%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%
となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われたそうで、工業製品について
は、比較的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは
自由化の直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に
与えた影響は、それほど大きくはなかった。
 以下において、貿易自由化が農産物、そして農村に与えた結果について見ていこう[55]。農
産物については、輸入制限品目は62年4月の103から64年の72に急減し、自由化率は59年の43パーセントから63年の92.1%に急増した。コメ、ムギなど国家貿易品目や、牛・豚肉、乳製品、柑橘類といった基幹的・選択的拡大対象農産物を除き、その周辺の農産物とその加工品について大幅な自由化が行われていったようだ[56]
 その背景には、53年を転機[57]に、ムギ類や飼料用穀物、大豆などは、アメリカを中心に過
剰化と輸出余力の形成が進み、その国際価格が日本の国内価格を下回るに至ったというこ
とがあった。また、アメリカの食料戦略や学校給食の普及、高度成長にともなう所得水準
の上昇のもとで、若い世代から、パン食や、畜産物、洋風野菜の消費が増え、食生活
の「洋風化、先進国化」が進み始めたという。
 こういう背景の下で自由化が進められていったのだが、割安な農産物の輸入の増加は、
それらの国内生産の縮小につながった。食管制度化に貿易が政府の一元化にあったムギ類
の輸入がコムギを中心にこの期に急増し、国内生産が圧迫し、切り捨てられていき、自給
率の低下が始まったようだ。コムギの自給率は、55年は41%、60年には39%、そして、
65年には28%となっていった。
 飼料用トウモロコシは、自由化が本格化する以前に輸入がいち早く自由化され、さらに
64年にコウリャンも自由化され、この期に飼料用の穀物の輸入が急増することになる。こ
のようにして、日本の家畜業は飼料用作物の経営地での「土地利用型」ではなくて、その
全面的輸入依存による工業的な「加工型」畜産として本格的に展開することに至る。
 大豆も、ムギと同様に、自由化のために、その自給率は1ケタ台へと急落していくこと
になる。大豆は、油脂やみそ・しょうゆ・とうふなどの原料であり、その油粕が飼料原料
にもなり、製油・食品・飼料資本にとって重要な作物である。61年に自由化され、その後、
輸入急増、国内生産の急減となることになる。
 このようにして、ムギ類、飼料用穀物、大豆の輸入増大に強く影響されて、この期の農
産物輸入は60年の8.7億ドルから65年の18.9億ドルへと6年間に2.2倍に急増し、逆に
農産物自給率は穀物重量、熱量ベースともにこの期から急減しはじめた。
 ただ、60年代は一連の農産物の国内生産の減少と農産物自給率の低下が進んだが、まだ、
その程度は緩く・部分的であり、農業総生産額は金額でも物価指数でも増大することにな
ったそうだ。日本人の主食であり、60年当時ほぼ全農家の90%が作付けし、全農業生産額
の半分を占める農業の大黒柱=コメは、旺盛な需要と高米価のもとで農民は増産を競い、
ひきつづき高位生産を継続することになった。また、農業総生産額のほぼ30%を占め、国民
の需要がますます増える傾向にあり、選択的拡大の対象とされた畜産物、果実、野菜生
産を拡大[58]していった[59]

4.結び
・戦後、日本は、「冷戦」に強く規定されながら、国際社会に復活していくことになる。
・戦後すぐにおいては、経済は弱く、輸入の超過が問題としてあった。
・中国との貿易再開が、日本国内では望まれたが、「冷戦」のため、無理であった
・代わりに、アメリカの市場、東アジアの市場、そして、GATTへの加盟が、アメリカの大きな支持のもと、進められていった。
・イギリスの国内からは、日本の経済進出に対して、反対であった。しかい、「冷戦」の倫理で、日本の経済的な安定は至上命題であった。その折衷として、GATT35条の適用となった。
・保護貿易が認められていた、50年代前半の日本では、外国からの技術の導入と、国内での技術開発の結果、大きな経済発展を遂げていくことになり、50年代後半になると、アメリカから、自由化を求められるまでにいたった。
・この発展の一つに家電の発展があるが、それは、戦後日本が、民生品に特化したことが、国際競争力を持つようになった背景としてあった。そして、そうさせた反戦平和運動があった。
・こうした民生品を評価するための雑誌も充実し、また、消費者の購買意識も、戦後大きく変化した。
・レバノン危機を経て、日本の国際社会でのプレゼンスは高まり、イギリスとの間でGATT35条の解消へ、大きく進んだ。
・50年代後半、国内では、貿易自由化への賛否両論の議論が戦わされたが、国際的な流れを見ると、経済的に大きくなった日本の自由化への道は避けられなかった。
・保護するべき産業を保護しながら、日本は急速に、貿易の自由化を進んでいくことになった。



【表 2】
年月
世界
年月
日本
1947年10月
IMF,GATT発足


1948年7月
OEEC発足




1949年12月
基準外国為替相場
(1ドル=360円)


1952年4月
対日講和条約発効
1952年7月
ECSC発足
1954年4月
関税法全面改正


1955年9月
GATT加盟



(イギリス等14国
対日差別35条適用)
1957年3月
ローマ条約締結


1958年1月
EEC発足。EURATOM発足。


1960年3月
EFTA発足。
1960年6月
貿易・為替自由化大綱
発表[61]
1961年1月
EEC、工業品域内関税


10%引き下げ、域内関税調整
1961年2月
西欧主要国通貨交換性回復


1961年9月
OEECからOECDに改組


1962年7月
EEC共通農業政策実施
1962年4月
輸入制限ネガティブ・リスト
方式へ移行




1962年10月
アメリカ・ケネディー大統領による


通商拡大法成立し、

ケネディ・ラウンド始める




1963年2月
GATT11条国へ


1964年4月
OECD加盟IMF8条国
移行
1967年5月
ケネディ・ラウンド関税交渉妥結
1967年7月
第1次資本自由化
1968年7月
EEC域外関税撤廃と
1968年4月から73年
ケネディ・ラウンド
域外共通関税実施
関税引き下げ
1973年1月
拡大EEC発足
1971年8月
一般特恵関税発足


1972年11月
一方的関税引き下げ
原典:通商産業調査会編『財団法人通商産業調査会30年史』通商産業調査会、1979年。
引用:山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年、p.164。

[2] 永原慶二『20世紀日本の歴史学』p.277。
[3] 中村政則「戦後歴史学と現代歴史学」日本歴史学協会『日本歴史学協会年報』2008年。
[4] マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年、付録Dを参照。
[5] マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年、付録Aを参照。
[6] 同上、付録Cを参照。
[7] 同上、p.110-111。
[8] 同上、付録Kを参照。
[9] 西成田「成長と『自立』」『現代日本経済史』p.126
[10] 「年報日本現代史」編集委員会編『年報日本現代史』第13号、現代資料出版、2008年、p.ⅰ-ⅱ。
[11] 原朗「戦後50年と日本経済」p.99
[12] 「三角合併、きょう解禁『黒船』に揺れる企業」『毎日新聞』2007年5月1日の朝刊「三角合併が解禁されたからといって、5月以降に外資による日本企業 買収が激増するかというと、その可能性は小さい。買収に詳しい壇柔正弁護士は『三角合併はあくまで当事者が合併に合意したうえで使う手法。嫌がる相手を無理やり買収する敵対的買収とは違う話だ』と指摘する。とはいえ、外資が穏やかに新制度を活用するという見方は経済界では少数派だけに、警戒を崩さない。安倍政権は対日直接投資倍増を公約しているため、民間企業には『政府は国内企業を本気で助けてくれないのでは』(メーカー幹部)との不信感も渦巻く。各社とも外資勢の動向に神経をとがらせている」
[13] 浅井良夫「現代資本主義と高度成長」歴史学研究会・日本史研究会『日本史講座』第10巻、東京大学出版会、2005年、p.214。
[14] 同様な政策は、ヨーロッパでは、マーシャルプランとして実行された。当時、ヨーロッパは、第二次世界大戦の結果、経済状況は大変悪かった。その上、東からのソ連の進出が進んでいたために、共産化の危険性は強かったと考えられる。
[15] 浅井「現代資本主義と高度成長」p.209によると、産業の競争力が弱かった1940年代末から50年代には、にほんは輸出により、国際収支を均衡させることは困難であり、アメリカの経済援助や軍事支出を(海外軍事調達)の補完を必要とした。日本は、エロア援助供与の条件としてアメリカが指示した「経済安定9原則」に基づいてドッジ・ラインが実施され、金ドル本位制に組み入れられた。「経済安定9原則」は、為替管理の強化を求めており、アメリカが、ドル固定レートの維持と引き換えに、日本に対して保護主義を容認したものと見ることができる、らしい。
[16] 『通商産業政策史 6』p.77。「限られた外貨を有効に活用して国民経済の健全な発展を図ることが当面の課題となった」
[17] 外貨予算制度、外貨割り当て制度
[18] 革新的技術導入に対して優先的に外貨を割り当て、他方、育成すべき新鋭重化学工業については、輸入への外貨割り当ての抑制を通して、それらの製品の輸入を事実上厳しく制限したりした。
[19] 高度成長は、産業関連施設整備を軸とする激烈な開発政策の展開(旧全総、新産都市、太平洋ベルト地帯、新全総、列島改造論)をともなうものであった。産業道路・産業港湾の建設、工業用水整備、臨海埋め立て工業用地の造成等が公共投資をベースに推進され、それが巨大企業の新たな技術水準と生産能力の実現=新工場建設に一体化された。
[20] この連関は、メジャーズの原油支配(原油の低価格かつ安定的供給)を起動力とするエネルギー基盤の前面転換、原料基盤の転換(化学・繊維)のインパクトを直接的に受けることによって戦後新たに形成され、高度成長期の革新投資の一方の牽引力となった。
[21] この系列は、高度成長期重化学工業化の基本線を形作った。この系列は、同一部門内需用の比率が著しく高いばかりではなく、最終需要における民間固定資本形成・輸出の牽引力となった。
[22] たとえば、機械の増産が鉄鋼の需要を作り出し、鉄鋼の増産が新しい製品市場を作り出したり、また、低価格の石油供給が火力発電所ブームを作り出し、それが送電線需要や電気機械市場を拡大させるといった相乗作用
[23] この時期の国産技術が量産効果および付加価値の小さい、いわば部分改良的もしくは小規模の技術が大半を占めていたのに対して、導入技術は技術革新を中心としたスケールの大きい技術であり、それぞれの産業部門のパターンをまったく一新させるものが多かった。
・鉄鋼業:ホット・ストリップ・ミル、純酸素上吹転炉
・自動車工業:完成車の組み立て技術、大量生産技術、デザイン技術
・重電気:東芝=GE、三菱電気=ウェスチングハウス、富士電機=ジーメンスの三社の包括契約
・電子工業部門:電子通信機器、テレビ、トランジスタ、電子計算機
・石油化学:ポリエステル系繊維、ポリプロピレン
[24] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.303-304。
[25] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.304。
[26] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.305。
[27] エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言 二』p.305。
[28] 加納『戦後史とジェンダー』インパクト出版会、2005年、p.198。
 「外に仕事をもつ主婦も持たない主婦も、ともに55年体制に組み込まれ、高度成長を支える役割を果たした。かたや〈前線〉で男たちと肩をならべ、かたや〈銃後の女〉として、経済戦士たる夫の内助と子供の教育に全力をあげる―。
  『電化生活』へのテイク・オフ〈離陸〉は、過酷な労働からの解放とともに、あらたな〈戦時体制〉を女たちにもたらしたといえるかもしれない」
  という見方もある。
[29] General Agreement on Tariffs and Trade: GATT
[30] 野林他著『国際政治経済学・入門』有斐閣、1996年、p.130。
[31] 橋本『現代日本経済史』岩波書店、2000年。
[32] 『通商白書 昭和35年』p.150。
[33] 重化学品の中には、機械類・金属品・化学品が含まれる
 その他には、食料品・繊維品・非金属鉱物製品・その他が含まれる。
[34] 『通商白書 昭和32年』総論第4章
  http://www.meti.go.jp/hakusho/
[35] 『通商白書 昭和32年』総論第4章
  http://www.meti.go.jp/hakusho/

[36] 『通商白書 昭和35年』p.74。
[37] 『毎日新聞』1960年6月21日は、次のように海外からの貿易自由化の背景を述べている。「一昨年12月、非居住者勘定の交換回復にふみ切った西欧各国は近く居住者についても自由化の方向に進み、イギリス、ベネルックス三国が遅くも秋までに完全自由化となる予定で、その他のフランス、イタリアでも同時かあるいは少し遅れて完全自由化することが見込まれている」「一昨年来外貨準備高が着実に増加、去る5月末14億19百万ドルとこれまでの最高を記録した。昨年一年間の輸入金額に対する外貨準備の割合も37%で、フランスの35%よりも高く、今後も国際収支の不安を招く心配はなくなっている。」「経済成長は世界の水準に比べ、はるかに高く、物価も極めて安定しており、他のアジア・アフリカ諸国とは当然区別されるべきであるとの意見がIMF加盟国間の間でかなり強まっている。」
[38] 『戦後産業史への証言』p.170-171。以下は、この本を参照。
[39] 今井善衛は、昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。当時、いわゆる「民族派」の多かった通産省の中で、少数派であった「国際派」に属していた。城山『官僚たちの夏』の玉木は、今井善衛のことであろう。
[40] 『戦後産業史への証言』p.172-173を参照。(今井)「・・・34年の夏ぐらいには、だいたい自由化の方向が出ていたんですけれども、すぐ明日実行というわけにはいかない。・・・」(今井)「池田さんは自由化の方向で腹を決めていたのですが、政務次官の原田憲さんが繊維業者がたくさんいる大阪(3区)で、原田さんのところに逐一情勢が入ってくる。原田氏から『このまま自由化やったらおれもたまらないし、池田は総理をねらっているんだけど、これもマイナスになる。いずれにせよたいへんなことになる。その前に、ひとつうまくやろうじゃないか』との申し入れがあった。はじめ私どもは、35年のできれば秋ぐらいに原綿の自由化をやりたいと思っていたんですが、原田氏などの意向で、それでは通産大臣があまりにも強引なことをやりすぎると受け取られるので、自由化時期を延ばせといい、私に指示があって、ほとんど発表した実施時期を延ばすよう訂正させられた。大臣のお声がかりという名目でした。」
[41] 『通商産業政策史 6』p.13によると、1959年のガットの東京総会において、日本の貿易自由化の方針が公表されるにいたったとある。
[42] 『戦後産業史への証言』p.135。
[43] 同、p.141。
[44] 同、p.141。
[45] 同、p.145。
[46] 同、p.176。
[47] 『戦後産業史への証言』p.175。
[48] 同、p.177。
[49] 経済産業省の方に、質問をする機会を、何度か持った。その時に、今でも、「民族派」と「国際派」の対立があるのかどうかについて尋ねてみた。結果、無いという答えもあったが、今でもあるという答えもあった。大きなビジョンとして、国際化というのは、共有されているそうである。次の段階で、国際化の原理原則を優先するのか、それとも、日本の会社を応援しようとするのかで、その違いが出てくるとのことであった。特に、後者の「民族派」の考え方は、何か、学問的な基礎があるわけではなく、どちらか言うと、「ナショナリズム」に近いと考えられる。
[50] 伊藤『池田勇人とその時代』p.108-109。
[51] 『通商産業政策史 17』p.376-378。
[52] 『差通商産業政策史 6』p.13によると、イギリスの例が書かれている。「戦後イギリスは、日本に対し厳しい差別的輸入制限を実施しており、また、30年の日本のガット加入に際して、ガット大35条の援用により最恵国待遇の供与を拒否した」とある。
[53] 『通商白書 昭和39年』p.116においても、問題点が指摘されている。日本の所得水準は低く、国富の乏しいこと、農業・中小企業の生産性が低いこと、大企業についても国際的には生産・経営規模が劣るものが多いこと、社会的間接資本が不足していること、消費者物価の上昇傾向が強いことなどなど。
[54] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[55] 暉峻衆三『日本の農業150年』第6章を参考に以下記述する。
[56] 暉峻衆三『日本の農業150年』p.183-184。
[57] 1953年、アメリカでコムギや、トウモロコシなど穀物類の滞貨
 →輸入価格が国内価格を下回ることに
 ↓
 アメリカは過剰農産物を処理するために、対外食糧援助
 →53年、相互防衛援助法の改正法
54年、「公法480号」
→過剰農産物処理をいっそう促進するための法律
   →ドルをもたない国でもアメリカの過剰農産物を受けいれて、それを自国通貨で販売し、その代金の一部はアメリカが現地での調達にあてるが、それ以外は、受入国が自国の経済力強化のための借款として使うことができた。また、受入国農産物の一部は、学校給食のために贈与されるとされた。

 54年から56年に、日本はこの援助によって、80万トンもの過剰農産物の受け入れ
 →その売り上げ代金の多くを電源開発や、愛知用水などの農業開発
 →または、日本での軍事目的やアメリカ農産物の市場開拓のために使用
   
 54年、「学校給食法」
  →パンと脱脂粉乳による学校給食を実施することが記載された
 +56-61年、アメリカ政府の援助資金による「キッチン・カー」の全国巡回
 ⇒日本人の食生活にパン食を中心とした洋風食を導入することに
 ⇒日本人の胃袋がアメリカの農業と政策に依存し、満たされるようになる起点となった(暉峻衆三『日本の農業150年』p.158-159)。
[58]赤澤史朗「所得倍増計画と高度経済成長」によれば、農業生産指数(1960年を100)とする時に、1965年では野菜116、果実123および乳牛142、豚232、鶏279、鶏卵196であった。
[59]暉峻衆三『日本の農業150年』p.185。
[60]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、p.168。
[61] これに先立つ、1960年6月20日に、世界銀行理事の渡辺武は、自由化について、コメントした。その中で、次のようなコメントも含まれていた。「ハガチ―事件、アイク訪日中止など今回の国内の事件は非常に残念で、信用を建直すには大変な努力と時間を必要とするだろう。しかし問題は今後の収拾方法にある。私の意見としては、反米は一向に差支えなく、国論がひとつに統一されている方がむしろ不思議だといえる。世銀・IMFの各国理事の考えも同じだと思う。問題はこうした反対意見が議会という一定の秩序の中で動くかどうかにある。秩序のない国には金を貸す気にならないのは当然である」(『毎日新聞』1060年6月21日)
 安保騒動が、国内的な問題だけではなく、国際的な問題であったということを示す証言であろう。安保騒動などの国内問題を、国際関係を踏まえた上で、評価し、位置づけていく必要がある。

2008年10月2日木曜日

東京に、いません。

10月3日の夜に、我が故郷、白浜に帰ります。

そんなわけで、東京にいません。

10月6日に、新幹線で、7日の0時位に、国立に帰ります。

あと、5日と6日は、ネット環境のない山奥の方に、行きますので、連絡はできません。

もし、急用のある場合は、携帯の方に、お願いします。

ただ、携帯の方も、通じるかは知りませんが・・・。

そんなわけで、連絡がある場合は、今日か、明日に連絡下さいね。

「国家」よ

「冷戦」の崩壊以後、自由主義経済が世界中を覆うようになった。自由主義経済下においては、世界中をモノ・ヒト・カネ・ネタが国境を越えて、瞬時に行きかい、「光」と「影」の両面において、様々な変化を引き起こしつつある。この変化の中で、日本の政治・経済・社会も既存の枠組みでは対応できず、「改革」が求められている。具体的に、中曽根内閣による改革から、橋本6大改革、そして小泉構造改革へと、日本は、自由主義的な枠組みに適応できるように、「改革」進められてきた。結果、日本は政治・経済・社会の全ての面において、大きく変容しつつある。

この一連の改革は、もちろん、国内から求められた内発的な側面があったことは事実であろう。しかし、海外からの「圧力」によって、国内改革が進められた側面もあるであろう。カネ・モノ・ヒト・ネタの国境を越えた大きな流れは、これまでの「国家」の役割を後退させるように働いているように思われる。日本においては、「小さな国家」が大きく唱えられた。 今日では、その構造改革の結果、不利益を被っていると考えられる人たちが日本の中においても、そして、世界においても、相当数いることが考えられる。そして、その内には、既存の「国家」の役割が健在であれば、「救済」されていた人たちもいるであろう。また、世界的な大きな変化に対しても、「国家」は、それに対応して、「救済」を図る必要があることも当然である。 「グローバリゼーション」とは何かは、まだ不明であるが、少なくとも、巨大な資本とかが、国境を越えて、国境をぶっ壊して、世界を均質な市場にして、そこで利益を生み出そうとする側面があることは考えられる。そこでは、エコノミーの論理が優先し、福祉などの面が失われ、多くの人々が、「国家」による「救済」も受けることができなくなり、苦しい境遇に貶められるということは十分に考えられる。「国家」による「救済」を受けることができない中での「貧困」などの「構造的な暴力」は、もちろん単線的に結びつくわけではないであろうが、「テロ」などを生み出す土壌になっていることは十分に考えられる。そして、低くなった国境を越えて、「テロ」が世界中に広がり、「見えない」脅威が私たち一人一人に圧し掛かってきている。

もちろんであるが、「グローバリゼーション」は「影」の面ばかりではなくて、「光」の面もあり、私たちは、そこから大きな利益を得ている。世界中がインターネットで結ばれることにより、私たちは、世界中の「知」「ネタ」などに、容易にアクセスできるようになった。また、これまでよりも「自由」に他国に留学や観光などで、行くことができるようになったということも指摘できるであろう。結果、様々なレベルでの「交流」が行われるようになり、他国のことに対しても、より強くシンパシーを持つことができるように変化しつつある。

このような中で、「近代主権国家」を基礎とする近代国民国家体系が変容しつつあると考えることは、自然なことなのではないか。具体的には、ヨーロッパにおけるEU統合の「拡大」と「深化」は、私たちに、新しい国際秩序の可能性を感じさせる。少なくとも、自国の最適化を図ることを追求する「近代主権国家」は、「グローバリゼーション」によって、変化を余儀なくされていることは明らかであろう。

私たちは、インターネットなどによって、他国を知り、他国のことに関して、無関心ではいられなくなった。つまり、他国で苦しんでいる人々を無視することはできなくなり、彼らに何かをしなければという感情を沸き起こさせるように、私たち自身の認識が変化しつつある。また、他国にまで広がる「テロ」も、その原因の一部は、その当事国の「破綻」であり、それを、他国が、利他的な動機(その当事国の市民に何かしなければいけないという感情とかなど)にしても、利己的な動機(「テロ」が自国に及ぶのを防ぐなど)にしても、無視することはできないし、してはいけない。「国境を越える医師団」などの活動が、このような変化の先進的な取り組みとして捉えることができるかもしれない。

ただ、ここでは、「国家」の役割が小さくなり、「国家」の役割が「超国家的」な組織や、「国家」よりも「ローカル」な組織に移るということを指摘したいわけではない。もちろん、これまで「国家」が独占してきた役割を他のアクターに移すことは重要であると考える、そのことについて考えることも重要であろう。しかし、ここでは、既存の「国家」が、「グローバリゼーション」によって、大きく動揺しつつある中での「国家」の役割について検討していきたい。私は、「国家」の役割は、依然として重要であると考えている。それは、グローバリゼーションという 巨大な流れに対して、抵抗できる、今考えられる主体は(もちろん国家だけではないが)、その有効性実効性も考えると、「国家」しかないのではないか。(「超国家的」組織や「ローカル」組織に対しても、大きな期待を寄せてはいるが。) もちろん、単なる、自国内の自己最適を諮るだけではダメだということは明らかではあるが、ただし、上でも確認したが、国家に何かしらの役割があるということも明らかであろう。グローバリゼーションの中で、国家は如何にして、あるべきなのか?

2008年10月1日水曜日

雑誌漁り

『暮らしの手帖』を、54年から、61年分を眺めていた。期待は、大きく外れたが、社会が「変化」するということを、強く感じさせられた。

おそらく、今の学生で、この雑誌のバックナンバーを眺めたことがあるのは、10人もいないのではないか。と、思いながら、眺めていました。

社会が、経済や政治を「規定」する側面があるということを言うのは簡単ですが、それを描くというのは、資料が膨大な分、大変だと、少し思いました。

毎日新聞を、数年分眺めていても、なかなか収穫はないので、世の中、楽していてはいけないということを痛感します。。。

いろんな人(1)

学校の先生

女性雑誌を調べている途中で、発見。
女性雑誌を見ているのも、研究の一環である!

今日の面白かったこと:
「新生活運動」
今日、毎日新聞を54年くらいから、読んでいると、頻繁に出てきた運動。
僕が見る限り、財界からの運動。民間からの運動として、国民運動まで、進めていこうとした。が、新聞を見る限り、毎日新聞の見方では、うまくいっていない。しかし、今でも、続いている。社会の近代化は、如何に進んでいったのか???

日本では、蠅をあまり見ることはない。少し前に、中国に行った時、どんな飲食店でも、蠅がぶんぶんしていた。日本では、昔、800万人を動員して、蠅退治をしたとか。そうした、運動の積み重ねが、今の日本を形成しているのだろう。こういった歴史は、あまり、習わないが、中国とかの「古い」部分を見ると、どうして、日本は、こうなったのか疑問がわいてくる。そんなのは、僕だけですか?

僕も、ある意味、「そんなの関係ねぇー」と思いますが、ただ、何となく、興味深い・・・。

おすすめ

テレビ番組:
爆笑問題のニッポンの教養
太田さんの議論の仕方とかが、僕には勉強になる。
一橋にも、来てくれるように、連絡済み。結果は、如何に???

雑誌:
『世界』
10月号から、きちんと購読することを決意する。
リベラル派雑誌を守りましょ。

10月3日に、60分程度の報告があり、それで、この15日間ほど、悩み中。
どうしよう???。。。(笑)。そういう時に、限って、別の本を読む・・・(笑)。。。

どういう「歴史」を書けばいいの?
それって、「意味」があるの、「重要」なの?
ただ単に、古い資料を見て、古い事実を言っているだけなんじゃないの?
じゃ、どうすればいいのよ!
社会に対して、それが「重要」であり、「意味」があるということを説明するということだけは
あきらめたくないと、思っていると、頭が痛い・・・(笑)。
じゃ、どうすればいいのよ!
案外、歴史学者も、歴史学の社会的な「責任」ということに対しては、きちんと、言語化されていないように、僕には思われる。
ブロックさんが、言うように、懐古趣味、骨董品集めに近いのか???
そうじゃない、歴史は、どうあるのか???
じゃ、どうすればいいのよ!
10月3日までには、答えはでないだろう(笑)。

10月3日の、夜のバスで、我が故郷、白浜に帰ります。6日に、新幹線で戻ってきます。